ヘンリーヘンリーズのギター担当。


by hayashihiromu

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キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰


キルケゴールとニーチェに共通することは、キリスト教の否定と、キリストの肯定です。異なる点は、絶望に対する解決法です。キルケゴールは真にキリスト教徒であることを提唱したのに対して、ニーチェは絶望の肯定を提唱しました。

では、そもそも絶望とはどういう状態のことなのでしょうか。

キルケゴールは、自己の不均衡が絶望状態であると述べています。
そもそも自己とは、「ある関係それ自身に関係する関係」であるとしています。人間とは、あらゆる関係の綜合です。無限と有限、自由と必然、理想と現実、自分と他人、その他諸々、あらゆる関係の綜合です。しかし、この関係は人間にのみ備わるものではありません。この関係が、この関係自身を意識すること、それが人間であり、自己であります。

この関係がこの関係を意識する時、この自らの関係が正しいのか、それとも正しくないのかを考えます。その時に、必ず必要なものが判断基準です。なにをもって正しい、則ち、関係が均衡状態にあるのかを考えるためには、その均衡状態の規範がなければなりません。キルケゴールは、その規範こそが人間にのみ備わるものであると言います。そしてその規範を精神と呼んでいます。

「人間とは精神である」

これは、キルケゴールの『死に至る病』の冒頭に書かれている言葉です。では、その精神とは何なのか。規範とは何なのか。キルケゴールは、精神のことを神(=キリスト)であると述べています。なぜならば、人間の自己を措定しているのは、その自己自身ではなく、第三者だからです。人間は、自己と決別することができないからこそ、絶望するのです。もし、自己を自己自身で措定しているのであるならば、今の自己が嫌だった場合、別の自己に作り替えることができるはずです。しかし、人間にはそれができない。もう少し具体的にいえば、人は自らの性格、才能、能力とは簡単に決別できない、ということです。その自らの性格、才能、能力が嫌だったとしても、変えることはできない。だからこそ絶望する。したがって、自己は第三者によって規定されているものなのだ、とキルケゴールは考えた訳です。

だからこそ、人間には、普遍的で永遠的な規範、則ち神が備わっており、その規範と照らし合わせることで、人間は自らの生が正しいのか正しくないのかを判断できるのです。規範と対面した時に自らの状態が不均衡であれば、それを均衡状態にするように努力するからです。


基本的に、人間が生きていく上で、様々な関係が自然と均衡状態になることはありません。生きている中で、かならずどこかで不均衡状態に陥ります。その不均衡状態を埋めるための手助けが、規範です。規範が無いと、自分が不均衡状態であったとしてもそれを認識することはできないばかりか、不均衡を均衡へと変化させることができません。なぜなら、どこがどのように不均衡であるかが分からないからです。

そのため、規範を失った人は「地上的なもの」を求めます。物やお金、地位、名声、情報、他人を闇雲に求めます。デタラメにひたすらそれらを求めるおかげで、一時は自らの不均衡状態を忘れることができます。誤摩化すことが出来ます。しかし、不均衡であることには変わりがありません。

この状態を、キルケゴールは「絶望の第一形態」と呼んでいます。絶望している(不均衡状態に陥っている)のにも関わらず、それに気付いていない。気付いていないということは、自己を認識していないということ。自己を認識していないということは、主体性もクソも無いということ。そのため、世の中にフラフラ流される。人の意見にフラフラ流される。「地上的なもの」に価値を置き、闇雲に必死にひたすらにそれらを求め続ける。

すると、すぐに「絶望の第二形態」が訪れます。それは、その「地上的なもの」が失われたときです。大切な物を失った時、お金を失った時、地位を失った時、友達を失った時、恋人を失った時です。それらがあるおかげで自らの様々な関係が不均衡であることを隠していたのに、それが欠けた途端、その不均衡が目の前に現れます。

人間は、「地上的なもの」が失われた時に絶望を感じます。しかし、キルケゴールに言わせればそれ自体は絶望ではないのです。自己の関係が不均衡状態に陥り、そしてそれを意識していないこと、それを「絶望」であると述べているのです。具体的に、4つの例を挙げています。

1つ目は、自己の関係が無限性に偏っている、「無限性の絶望」です。これは、感情や認識、意思が想像的なものとなり、延いては自己が想像的なものとなることです。価値の無いものに多大な価値を置くことです。例えとしては、「宗教への単なる陶酔」が挙げられています。

2つ目は、「有限性の絶望」です。これは、社会で生きるために個性を没落させることです。地上的なものを手に入れるために、自己を省みないことです。そのため、社会の中では、「地上的なもの」、その意味で成功するでしょう。しかし、そこに自己はありません。

3つ目は、「可能性の絶望」です。これは、本当の自己自身を見ないで、空想的な自己自身を見ている状態です。人は、この状態に陥っている人を、「非現実的な人間」であると言います。砕けた言い方をするならば、「俺はすごいからなんでもできるぞ!」と根拠なく考え、そのように生きている人のことを言います。その人自身の自己では成し得ないことを、空想的にできると考えているのです。

4つ目は、「必然性の絶望」です。これは、信じることをやめた人間です。いかなる苦境に陥ったとしても、信じる心があれば、どこまでも努力できます。それをせず、すべての状況を諦観的に捉える場合のことです。


自己が不均衡状態になると、これらの「絶望」が出てきます。そして、これらの絶望状態にあり、それを反省するための精神が無い時、人は「地上的なもの」などに価値を置き、齟齬をきたしている自己を覆い隠すのです。そして、自らが大きな価値を置いているものが失われた時、人は「自分は今絶望している」と思います。この時に本来的な自己を認識することができるのならば「絶望」から抜けだせることができるのですが、人はそうしません。現状の自己を認めたくないのです。

キルケゴールの「絶望」ではない絶望状態に陥った人間の考えることとは、古今東西いつでも一緒です。『死に至る病』で、その例として挙っているのは、時間が解決してくれる、他のことに熱中して忘れる、別の何かを見つける、といったものです。現代と何も変わりません。つまりこれは、「地上的なもの」で自己を覆い隠し、有耶無耶にしているのです。

そしてその結果、またもや人は「絶望の第一形態」に戻ります。則ち、永遠と続く、終わりの無い絶望の循環が発生しているのです。つまり、無精神の人間は、決して絶望から逃れることはできないのです。

人が何かを求めるのは、自らの絶望を、自己の不均衡を、認めたくない性格、能力、自らの状況、それを覆い隠し、誤摩化し、曖昧にし、有耶無耶にするためです。そしてそのような行動は、常に次なる絶望への一歩となっています。無精神の人間は、絶望を隠すために何かを求め、そしてそれがまた苦しい絶望を創出し、そしてまた絶望を隠す為に何かを求め、そしてそれがまた絶望を創出する、という、ただその繰り返し、それだけの人生を歩むことになります。

だからこそ、キルケゴールは真にキリストを信仰することを提唱したのです。自己を認識することができれば、主体的で、俗世に縛られることなく、自らを突き詰めて行ける、そのような生を生きることができるからです。




突然、ここで話しは変わりますが、ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の冒頭で、「神は死んだ」と述べました。キルケゴールの絶望の議論にニーチェを当てはめた場合、この発言により、人間から完全に精神が喪失したこととなります。無精神の人間が極大に誕生し、終わりの無い絶望の循環が社会を覆いました。絶望の循環が社会を動かし、人を動かす。永遠に同じことの繰り返し。絶望するために絶望を覆い隠す。それだけの生が、至る所に芽吹いたのです。

ニーチェやキルケゴールが生きた社会、以後の社会、そして現在も含めた社会、それに生きる人。彼ら、そして私達は、産業革命以降、生活が近代化し、時間と金に雁字搦めにされながら生きていく中で、宗教や慣習、伝統的な規範がどんどん喪失していきました。その結果、人々に規範がなくなったのです。

現在の社会を生きる私達に、普遍的で、絶対的で、永遠的な規範はありません。その結果、正しさを喪失します。何が正解か分からなくなります。どのように生きていけばいいのか、分からなくなります。そして、再帰性(ああすればよかったのではないだろうか、いや、こうすればよかったのではないだろうか、ああすべきなのではないだろうか、こうすべきではないだろうかと永遠悩む感情)が増大します。


絶望と規範の議論が混在していますが、ここまでで言いたいこととは、精神の喪失により、絶望のために生き、永遠と苦悩する、そしてその苦悩には意味など無い。その意味の無い苦悩を永遠抱き続ける、それだけが人生、ということです。

しかし、それだけでは、何とも悲しいではありませんか。生きることが、あまりにも苦しすぎる。生きる意味が分からなくなる。では、キリストを真に信仰すればいいのでしょうか?日本人にはハードルが高すぎます。では、成す術も無く、絶望のために生きながらえなければいきないのでしょうか。

自分は、そんなのはごめんです。だからこそ、1つの方法としてここで提示したいことは、ニーチェの「永劫回帰」です。


「神は死んだ」の発言により無精神に陥った人間は、絶望の循環の中で生きることとなりました。しかし、ニーチェはこの発言をした『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、「永劫回帰」を提唱しています。


『幻影と謎』の章の中で、ツァラトゥストラは、過去に永遠と延びている道と、未来に永遠と延びている道に立っている「瞬間」という名の門にやってきます。この2つ道は、直線であるが故に、一見互いに永遠に喰い違うもの、矛盾しているものであるように見えます。しかし、ここで「重力の魔」と呼称される俗世に人を縛り付ける者はこう言います。


「直線をなすものは、すべていつわりなのだ」
「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ」(岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った 下』p15〜)

すると、ツァラトゥストラとはこう考えます。

「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?」

「ここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、――我々はみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?」

「そしてまためぐり戻ってきて、あの向こうへ延びてるもう1つ道、あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか、――我々は永遠にわたってめぐり戻ってこなければならないのではなかろうか?」


この後、ツァラトゥストラの目の前に、口の中に黒くて重たいヘビが入り込んだ牧人が突然現れます。ツァラトゥストラは彼を助けようとしますが、最早どうすることもできません。そこで彼は叫びます。「噛むんだ!噛むんだ!頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」

その時、牧人はヘビを噛み切ります。そして、飛び起きます。すると、牧人は牧人ではなくなり、もやは人間でもなくなり、1人の変容した者、光に包まれた者となるのです。



ニーチェは、この世は永遠に繰り返すのだというのです。それは、ただの繰り返しではありません。そっくりそのまま、全ての動作が繰り返すのです。今した瞬きも、呼吸も、咳も、漂って来る匂いも、気温も、憂鬱も、疼痛も、産毛の位置も、息を吸い込む量も、吐く量も、それら全てが、寸分違わず、過去に起こったことであり、未来で起こることであり、そして今まさにこの「瞬間」に起こっていることだというのです。

ニーチェは『この人を見よ』の中で、「永劫回帰」は「およそ到達しうる最高の肯定の形式」であると述べています。「永劫回帰」は、ただの決定論、運命論ではありません。ニヒリズムでもありません。肯定なのです。

無精神となり、絶望から逃れることができなくなった人々が、ただただその絶望を絶望しながら甘受するのではなく、その絶望自体を肯定する。では、いかにして肯定するのか?何を根拠に、何を拠り所として肯定するのか?それは、「永劫回帰」の認識によってです。

自分の今の絶望の状態は、過去に起こったことであり、未来にも起こることならば、自分の歩みは規定されたものとなります。そしてそれは、自分自身に規定されたものです。自分の肯定の意思によって、自分の行動が全て正当化されます。

だからこそ、どこまでも努力できるのです。大きな選択が訪れたとしても、再帰性の中でただただ踞るのではなく、自らの行動に正統性を持つことができるのです。繰り返しますが、その正統性を賦与するものとは、自分です。自分が過去に行ったことであり、未来に行うことなのですから。

この「永劫回帰」を認識することが、永遠に続く絶望の循環から抜け出すための思想なのです。しかしそれは並大抵のことではありません。なんせ、最高の肯定です。口に入り込んだヘビを噛み砕くのは、その人の意思だけなのです。そしてそれを噛み砕いた瞬間、人は「超人」になります。無精神からも、ニヒリズムからも解放され、自らの行動、その一挙一動を肯定できるのです。

「神は死んだ」の発言で、人は苦悩を背負い続ける、又、絶望から必死に目を背け、誤摩化すだけの人生を歩むことになりました。しかし、その絶望ですら肯定する。「地上的なもの」が失われた時も、それ自体を、過去の自分と、未来の自分を根拠に肯定する。だからこそ、どこまでも主体的に、本来的な生を全うすることが可能になるのです。ニーチェの言う賤民的、家畜的大衆、則ち畜群から抜け出ることができるのです。


しかしながら、「永劫回帰」の認識とは、誠に高尚なものであります。普通はできません。だけれども、自らの抱く絶望とはどういうものなのか、ということを、キルケゴールの分析と共に認識することは、きっとこれからの人生にとって、非常に有益なものなのではないかな、と思った次第であります。


『死に至る病』を読むのなら、ちくま学芸文庫の桝田哲三郎訳が非常に優れているので、参考にしてください。









おわり










by hayashihiromu | 2014-11-10 23:57 | 普通

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