ヘンリーヘンリーズのギター担当。


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三田祭①〜イケメンさんに壁ドンされて〜


今年も三田祭が終了しました。
自分は辯論部という福澤諭吉先生が創設した日本最古のサークルに入っているのですが、今年の三田祭ではその辯論部で中国に関する講演会を主催しました。

去年は片山杜秀教授をお招きして、また、自分も登壇させて頂き、「国の死に方」というテーマで論議を交わさせていただいたのですが、(片山杜秀教授との公開討論会『国の死に方〜戦前日本と現在〜』①安倍政権の意図②天皇制の変遷+山本議員手紙問題)今年は特に登壇することもなく、ポスター作りとチラシを配ることに全力を尽くしました。

ポスターはと言いますと、クソみたいなド素人の割には中々いい感じのものを仕上げることができましてうんうん満足。Twitterに載せたあれですね。

チラシ配りに関しては、去年はですね、大混雑の人ごみの中、口から「あ…」という言葉をたまに零しながらチラシを抱えて延々ただただ立ち尽くし、結局1枚のチラシも配れなかったという悲劇が発生してしまっていたのですが、そのリベンジマッチといいましょうか、今年は頑張って5枚もチラシを配ることができましたようれしい。

そんなこんなで講演会が無事に終わると、学園祭を満喫するために雑踏の中に繰り出しました。去年は、ドランプの大富豪で勝ち抜いたら商品を貰える、という企画に友達と2人で参加し、あっさり一回戦で負けてそのまま家に帰っただけだったので、今年は満喫するべく色々探っていると、なんやかんやで「慶應が誇るイケメンがタロット占いの結果を壁ドンで伝えます」という企画に行くことに。まあこれは行くよね。

様々な種類の女性で埋め尽くされた大行列に30分ほど並んだところでとうとう自分達の番。しかしまだこの段階では、正直イケメンと言ってもたかがしれてる、どうせなよなよしてたり髪型で誤摩化してるだけのゴボウみたいな人ばかりで、椎名桔平さん的な人はいないんだろうな、と舐めた感じでいた訳ですけれども、受付で300円(200円だったけ?)を払っている時に入り口からチラッと見えたイケメンにあれれ??

いやいや違うんだ自分は茶化し半分というか、まあ少し話しの種になればいいかな、的な感じで来ている訳で、別にドキドキするために来ている訳ではないのですから、いや、ね、うん、そもそも自分は大森南朋さんや黒猫チェルシーの澤さんの腕にはときめくけれども、こんな昨今のイケメンには全くもって興味が無かったはずであり、っていうか自分は完全なる男ですから何言ってんのバカじゃないのとぶつぶつ言っている内にいよいよ中に入って自分の担当のイケメンさんがいる席に座りました。

そのイケメンさんは、正直そこまで凄いイケメンという訳ではなかったので、ふん、まあ所詮この程度ですか、さっき入り口から見たイケメンさんには正直イケメン過ぎてビビって思わずビビったという意味でドキドキしてしまったけれども、自分の担当のイケメンさんは大したことないな、うんうん、と余裕をぶっこいていた自分はまだ「イケメン」というものを見くびっていたのでしょう。

自分より1つ年上のそのイケメンさんは、「男の人がお客さんだと緊張するんですよ〜」とハニカミながら喋ってこられて、おお、そういう作戦か、なんだかかわいい人懐っこい感じできて油断させたところでボディーブローを放り込んでくるつもりだな、そんな戦法は効かないもんね!と自分はしっかり脇を締めながら雑談していると、なぜか進路の話しになり、気がつけば凄く会話が弾んでいました。

この企画のコンセプトはタロット占いの結果を壁ドンで伝える、ということだったのですが、心地の良い雑談でいつの間にかガードを下げきって脇を締めるどころかばんざーい!ってしているレベルになっていた自分は、結構マジな悩みを占って欲しい、と自然と頼んでいました。これぞイケメンマジック。

タロットカードを1枚引くと、「分かりました、では立って下さい」と言われ、もう言われるがままに立つと、その瞬間に壁際に追いやられる訳ですよずんずんずんずんずんずんと!そしてさっきまではにかんでいたイケメンさんの顔がすっと真面目になったかと思いきや自分の顔の横をドン!!

え、え、え、と頭が真っ白になっている内にイケメンさんの顔が自分の顔に近づいてきて自分の頬にイケメンさんの頬が当たるか当たらないかのところまで近づいてきて耳元で占いの結果をイケメンな声でわああああああああああぁああぁぁあぁぁぁ…。






今まではですね、アウトレイジの椎名桔平さんや、この前のリーガルハイスペシャルの大森南朋さんみたいな人にときめいていた訳ですけれども、ああ、なんだか昨今のイケメンもいいな、と思った次第であります。すっごくドキドキしてしまいましたよはい。

いや、イケメンというよりね、人に壁を作らない+イケメンのコンビネーションだと思いますね。いやはや、学びましたよ。

しかも耳元ですごいいいこと言ってくれるんですもん。そりゃドキドキしますよ。さすが慶應生ですね。即興であそこまでできるとは、勉強だけじゃないな、と思いましたね。自分も見習わなければ。イケメンさんに。あんなイケメンさんになりたい。






という訳でね、ひとしきりイケメンさんに興奮したあと、今度は打って変わって、200円払えば女子大生に自分の好きなシチュエーションで告白してもらえる、という企画に行ったのですが、そして自分はそこで「出兵」というシチュエーションを頼んだのですが、それはまた今度。







つづく




















by hayashihiromu | 2014-11-25 16:37 | 普通

キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰 2


前回の『死に至る病』と「永劫回帰」についてのつらつらうだうだとした文章を、現代社会にもう少し結びつけてみます。

現代社会に蔓延る病理は、自己の無精神性であるとするのならば、絶望の循環が社会を覆っていることとなります。人は自らの不均衡状態、例えば、本当の自分と、想像的な、空想的なものの中に生きる自分、又、世俗の中で生きる自分、その関係が崩れている状態、その状態を「地上的なもの」で覆い隠し、一時の平穏を手に入れます。そして、その自らが大きな価値を置いている「地上的なもの」が自らの手から離れた瞬間に、その関係の齟齬が露呈されるものの、本来的な自己からは逃避し、「時間が解決してくれる」、「他の何かに没頭する」、「別のものに大きな価値を置き直す」、という具合にまたもや「地上的なもの」で齟齬を覆い隠します。この繰り返しが起こっているということです。

1つ考えることがあるとするのならば、果たして、この現代の社会の中で、自己の齟齬を覆い隠せるだけの「地上的なもの」が存在するのか、ということです。これは、2つの側面から見ることができます。

第一に、言葉通り、大多数の人の自己の齟齬を誤摩化せるだけの「地上的なもの」が存在していないのではないかという疑問です。数十年前までの日本には、たしかにその「地上的なもの」が存在していたと思います。戦後急速に無精神となってしまったものの、高度経済成長の中で、自然と価値を置くことが出来る、そして多くの人がそれを共有できるだけのリソースがありました。新しく生み出される物、価値観、豊かさ、そして何より、成長がもたらす未来への希望は、無精神であるが故に反省せずに放置される不均衡状態の自己を覆い隠すに足りるものであったのです。一度そのものが失われたとしても、すぐに代わりの物が見つかるのです。それほどまでに、「地上的なもの」で社会は溢れていました。

しかし、現在の社会ではどうでしょうか。それこそ、物や情報で溢れた社会である故に、より多くの「地上的なもの」を得られるかのように見えます。しかし実情は、物や情報で溢れた社会であるが故に、「地上的なもの」ですら喪失しているのです。まずそもそも、仕事が無い。自分のやりたい仕事、満足のできる仕事に付ける人は限られた人間です。それだけでなく、非正規雇用やブラック企業が増える中、お金や時間までもが失われて行きます。そこに加えて、デフレです。未来に希望を持つことができなくなっている事実は、内閣府が昨年行った若者に対する調査に明確にでています。古市憲寿氏著の『絶望の国の幸福な若者たち』が引っ繰り返ったのです。

このようなことを考えてみると、自らの絶望を覆い隠す「地上的なもの」すら無いのが現在の社会なのではないか、という疑問が生まれます。

第二に、そもそも「地上的なもの」に価値を置くことができなくなっているのではないか、という疑問です。無精神であると同時に、社会的規範(大澤真幸氏の言う第三者の審級)すら無くなった現在、何が正しいのかを判断できなくなっている訳です。だからこそ、そもそも物に価値を置けない。その価値を置く判断基準さえ無い。そのような現象が起こっているような気がします。


グローバル化と共にある歩む日本において、このような社会がこれからより加速していくことは目に見えている事実です。
だからこそより自らの実存を意識しなければならないのですが、そんなことはできたもんじゃない。だからこそ、色々と考えてみることが必要なんだとは思いますが、、、、
うーん。どうしよう。
ひとつの方法として、やっぱり前回書いたニーチェの永劫回帰は、中々面白い、有用なものではあると思いますねー。





おわり








by hayashihiromu | 2014-11-11 21:59 | 普通

キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰


キルケゴールとニーチェに共通することは、キリスト教の否定と、キリストの肯定です。異なる点は、絶望に対する解決法です。キルケゴールは真にキリスト教徒であることを提唱したのに対して、ニーチェは絶望の肯定を提唱しました。

では、そもそも絶望とはどういう状態のことなのでしょうか。

キルケゴールは、自己の不均衡が絶望状態であると述べています。
そもそも自己とは、「ある関係それ自身に関係する関係」であるとしています。人間とは、あらゆる関係の綜合です。無限と有限、自由と必然、理想と現実、自分と他人、その他諸々、あらゆる関係の綜合です。しかし、この関係は人間にのみ備わるものではありません。この関係が、この関係自身を意識すること、それが人間であり、自己であります。

この関係がこの関係を意識する時、この自らの関係が正しいのか、それとも正しくないのかを考えます。その時に、必ず必要なものが判断基準です。なにをもって正しい、則ち、関係が均衡状態にあるのかを考えるためには、その均衡状態の規範がなければなりません。キルケゴールは、その規範こそが人間にのみ備わるものであると言います。そしてその規範を精神と呼んでいます。

「人間とは精神である」

これは、キルケゴールの『死に至る病』の冒頭に書かれている言葉です。では、その精神とは何なのか。規範とは何なのか。キルケゴールは、精神のことを神(=キリスト)であると述べています。なぜならば、人間の自己を措定しているのは、その自己自身ではなく、第三者だからです。人間は、自己と決別することができないからこそ、絶望するのです。もし、自己を自己自身で措定しているのであるならば、今の自己が嫌だった場合、別の自己に作り替えることができるはずです。しかし、人間にはそれができない。もう少し具体的にいえば、人は自らの性格、才能、能力とは簡単に決別できない、ということです。その自らの性格、才能、能力が嫌だったとしても、変えることはできない。だからこそ絶望する。したがって、自己は第三者によって規定されているものなのだ、とキルケゴールは考えた訳です。

だからこそ、人間には、普遍的で永遠的な規範、則ち神が備わっており、その規範と照らし合わせることで、人間は自らの生が正しいのか正しくないのかを判断できるのです。規範と対面した時に自らの状態が不均衡であれば、それを均衡状態にするように努力するからです。


基本的に、人間が生きていく上で、様々な関係が自然と均衡状態になることはありません。生きている中で、かならずどこかで不均衡状態に陥ります。その不均衡状態を埋めるための手助けが、規範です。規範が無いと、自分が不均衡状態であったとしてもそれを認識することはできないばかりか、不均衡を均衡へと変化させることができません。なぜなら、どこがどのように不均衡であるかが分からないからです。

そのため、規範を失った人は「地上的なもの」を求めます。物やお金、地位、名声、情報、他人を闇雲に求めます。デタラメにひたすらそれらを求めるおかげで、一時は自らの不均衡状態を忘れることができます。誤摩化すことが出来ます。しかし、不均衡であることには変わりがありません。

この状態を、キルケゴールは「絶望の第一形態」と呼んでいます。絶望している(不均衡状態に陥っている)のにも関わらず、それに気付いていない。気付いていないということは、自己を認識していないということ。自己を認識していないということは、主体性もクソも無いということ。そのため、世の中にフラフラ流される。人の意見にフラフラ流される。「地上的なもの」に価値を置き、闇雲に必死にひたすらにそれらを求め続ける。

すると、すぐに「絶望の第二形態」が訪れます。それは、その「地上的なもの」が失われたときです。大切な物を失った時、お金を失った時、地位を失った時、友達を失った時、恋人を失った時です。それらがあるおかげで自らの様々な関係が不均衡であることを隠していたのに、それが欠けた途端、その不均衡が目の前に現れます。

人間は、「地上的なもの」が失われた時に絶望を感じます。しかし、キルケゴールに言わせればそれ自体は絶望ではないのです。自己の関係が不均衡状態に陥り、そしてそれを意識していないこと、それを「絶望」であると述べているのです。具体的に、4つの例を挙げています。

1つ目は、自己の関係が無限性に偏っている、「無限性の絶望」です。これは、感情や認識、意思が想像的なものとなり、延いては自己が想像的なものとなることです。価値の無いものに多大な価値を置くことです。例えとしては、「宗教への単なる陶酔」が挙げられています。

2つ目は、「有限性の絶望」です。これは、社会で生きるために個性を没落させることです。地上的なものを手に入れるために、自己を省みないことです。そのため、社会の中では、「地上的なもの」、その意味で成功するでしょう。しかし、そこに自己はありません。

3つ目は、「可能性の絶望」です。これは、本当の自己自身を見ないで、空想的な自己自身を見ている状態です。人は、この状態に陥っている人を、「非現実的な人間」であると言います。砕けた言い方をするならば、「俺はすごいからなんでもできるぞ!」と根拠なく考え、そのように生きている人のことを言います。その人自身の自己では成し得ないことを、空想的にできると考えているのです。

4つ目は、「必然性の絶望」です。これは、信じることをやめた人間です。いかなる苦境に陥ったとしても、信じる心があれば、どこまでも努力できます。それをせず、すべての状況を諦観的に捉える場合のことです。


自己が不均衡状態になると、これらの「絶望」が出てきます。そして、これらの絶望状態にあり、それを反省するための精神が無い時、人は「地上的なもの」などに価値を置き、齟齬をきたしている自己を覆い隠すのです。そして、自らが大きな価値を置いているものが失われた時、人は「自分は今絶望している」と思います。この時に本来的な自己を認識することができるのならば「絶望」から抜けだせることができるのですが、人はそうしません。現状の自己を認めたくないのです。

キルケゴールの「絶望」ではない絶望状態に陥った人間の考えることとは、古今東西いつでも一緒です。『死に至る病』で、その例として挙っているのは、時間が解決してくれる、他のことに熱中して忘れる、別の何かを見つける、といったものです。現代と何も変わりません。つまりこれは、「地上的なもの」で自己を覆い隠し、有耶無耶にしているのです。

そしてその結果、またもや人は「絶望の第一形態」に戻ります。則ち、永遠と続く、終わりの無い絶望の循環が発生しているのです。つまり、無精神の人間は、決して絶望から逃れることはできないのです。

人が何かを求めるのは、自らの絶望を、自己の不均衡を、認めたくない性格、能力、自らの状況、それを覆い隠し、誤摩化し、曖昧にし、有耶無耶にするためです。そしてそのような行動は、常に次なる絶望への一歩となっています。無精神の人間は、絶望を隠すために何かを求め、そしてそれがまた苦しい絶望を創出し、そしてまた絶望を隠す為に何かを求め、そしてそれがまた絶望を創出する、という、ただその繰り返し、それだけの人生を歩むことになります。

だからこそ、キルケゴールは真にキリストを信仰することを提唱したのです。自己を認識することができれば、主体的で、俗世に縛られることなく、自らを突き詰めて行ける、そのような生を生きることができるからです。




突然、ここで話しは変わりますが、ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の冒頭で、「神は死んだ」と述べました。キルケゴールの絶望の議論にニーチェを当てはめた場合、この発言により、人間から完全に精神が喪失したこととなります。無精神の人間が極大に誕生し、終わりの無い絶望の循環が社会を覆いました。絶望の循環が社会を動かし、人を動かす。永遠に同じことの繰り返し。絶望するために絶望を覆い隠す。それだけの生が、至る所に芽吹いたのです。

ニーチェやキルケゴールが生きた社会、以後の社会、そして現在も含めた社会、それに生きる人。彼ら、そして私達は、産業革命以降、生活が近代化し、時間と金に雁字搦めにされながら生きていく中で、宗教や慣習、伝統的な規範がどんどん喪失していきました。その結果、人々に規範がなくなったのです。

現在の社会を生きる私達に、普遍的で、絶対的で、永遠的な規範はありません。その結果、正しさを喪失します。何が正解か分からなくなります。どのように生きていけばいいのか、分からなくなります。そして、再帰性(ああすればよかったのではないだろうか、いや、こうすればよかったのではないだろうか、ああすべきなのではないだろうか、こうすべきではないだろうかと永遠悩む感情)が増大します。


絶望と規範の議論が混在していますが、ここまでで言いたいこととは、精神の喪失により、絶望のために生き、永遠と苦悩する、そしてその苦悩には意味など無い。その意味の無い苦悩を永遠抱き続ける、それだけが人生、ということです。

しかし、それだけでは、何とも悲しいではありませんか。生きることが、あまりにも苦しすぎる。生きる意味が分からなくなる。では、キリストを真に信仰すればいいのでしょうか?日本人にはハードルが高すぎます。では、成す術も無く、絶望のために生きながらえなければいきないのでしょうか。

自分は、そんなのはごめんです。だからこそ、1つの方法としてここで提示したいことは、ニーチェの「永劫回帰」です。


「神は死んだ」の発言により無精神に陥った人間は、絶望の循環の中で生きることとなりました。しかし、ニーチェはこの発言をした『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、「永劫回帰」を提唱しています。


『幻影と謎』の章の中で、ツァラトゥストラは、過去に永遠と延びている道と、未来に永遠と延びている道に立っている「瞬間」という名の門にやってきます。この2つ道は、直線であるが故に、一見互いに永遠に喰い違うもの、矛盾しているものであるように見えます。しかし、ここで「重力の魔」と呼称される俗世に人を縛り付ける者はこう言います。


「直線をなすものは、すべていつわりなのだ」
「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ」(岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った 下』p15〜)

すると、ツァラトゥストラとはこう考えます。

「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?」

「ここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、――我々はみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?」

「そしてまためぐり戻ってきて、あの向こうへ延びてるもう1つ道、あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか、――我々は永遠にわたってめぐり戻ってこなければならないのではなかろうか?」


この後、ツァラトゥストラの目の前に、口の中に黒くて重たいヘビが入り込んだ牧人が突然現れます。ツァラトゥストラは彼を助けようとしますが、最早どうすることもできません。そこで彼は叫びます。「噛むんだ!噛むんだ!頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」

その時、牧人はヘビを噛み切ります。そして、飛び起きます。すると、牧人は牧人ではなくなり、もやは人間でもなくなり、1人の変容した者、光に包まれた者となるのです。



ニーチェは、この世は永遠に繰り返すのだというのです。それは、ただの繰り返しではありません。そっくりそのまま、全ての動作が繰り返すのです。今した瞬きも、呼吸も、咳も、漂って来る匂いも、気温も、憂鬱も、疼痛も、産毛の位置も、息を吸い込む量も、吐く量も、それら全てが、寸分違わず、過去に起こったことであり、未来で起こることであり、そして今まさにこの「瞬間」に起こっていることだというのです。

ニーチェは『この人を見よ』の中で、「永劫回帰」は「およそ到達しうる最高の肯定の形式」であると述べています。「永劫回帰」は、ただの決定論、運命論ではありません。ニヒリズムでもありません。肯定なのです。

無精神となり、絶望から逃れることができなくなった人々が、ただただその絶望を絶望しながら甘受するのではなく、その絶望自体を肯定する。では、いかにして肯定するのか?何を根拠に、何を拠り所として肯定するのか?それは、「永劫回帰」の認識によってです。

自分の今の絶望の状態は、過去に起こったことであり、未来にも起こることならば、自分の歩みは規定されたものとなります。そしてそれは、自分自身に規定されたものです。自分の肯定の意思によって、自分の行動が全て正当化されます。

だからこそ、どこまでも努力できるのです。大きな選択が訪れたとしても、再帰性の中でただただ踞るのではなく、自らの行動に正統性を持つことができるのです。繰り返しますが、その正統性を賦与するものとは、自分です。自分が過去に行ったことであり、未来に行うことなのですから。

この「永劫回帰」を認識することが、永遠に続く絶望の循環から抜け出すための思想なのです。しかしそれは並大抵のことではありません。なんせ、最高の肯定です。口に入り込んだヘビを噛み砕くのは、その人の意思だけなのです。そしてそれを噛み砕いた瞬間、人は「超人」になります。無精神からも、ニヒリズムからも解放され、自らの行動、その一挙一動を肯定できるのです。

「神は死んだ」の発言で、人は苦悩を背負い続ける、又、絶望から必死に目を背け、誤摩化すだけの人生を歩むことになりました。しかし、その絶望ですら肯定する。「地上的なもの」が失われた時も、それ自体を、過去の自分と、未来の自分を根拠に肯定する。だからこそ、どこまでも主体的に、本来的な生を全うすることが可能になるのです。ニーチェの言う賤民的、家畜的大衆、則ち畜群から抜け出ることができるのです。


しかしながら、「永劫回帰」の認識とは、誠に高尚なものであります。普通はできません。だけれども、自らの抱く絶望とはどういうものなのか、ということを、キルケゴールの分析と共に認識することは、きっとこれからの人生にとって、非常に有益なものなのではないかな、と思った次第であります。


『死に至る病』を読むのなら、ちくま学芸文庫の桝田哲三郎訳が非常に優れているので、参考にしてください。









おわり










by hayashihiromu | 2014-11-10 23:57 | 普通

『日本人畸形説』-岸田国士-


岸田国士と言えば、非常に著名な劇作家であります。翻訳家としても有名で、岸田国士訳の『にんじん』は多くの人が読んだことがあると思います。

『日本人畸形説』とは、1947年に書かれた文章です。今は青空文庫にありますね。


冒頭の文章がそこそこ有名だと思います。

「日本人とはおおかた畸形的なものから成り立っている人間で、どうかすると、それをかえって自分たちの特色のように思い込み、もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する一方、その畸形的なもののために絶えずおびやかされ、幻滅を味い、その結果、自分達の世界以外に「生命の完きすがた」とでもいうべき人間の影像を探し求めて、これにひそかなあこがれの情をよせる人間群である。」


簡単に言えば、日本人は精神が救いのない程おかしい人種なんだよ、と言っている訳です。日本人は皆「精神的畸形」であると言っている訳です。「畸形」という言葉は嫌な言葉ですが、岸田国士は、だからこそあえて使っています。しっかりと認識するためにです。

「精神的畸形」、その根幹は何かというと、「歪んだ自尊心」です。日本人の自尊心は劣等感の変形、強がりのことが多いため、だからこそ面目、面子などを重んじたり、威張りたいところを逆に卑下を誇張して同じ効果を狙ったりする訳ですね。
この自尊心が日本特有のジェンダー意識を作り上げたり、自分の意見を言わなかったり、卑屈な見栄をはったりする。そう述べられています。

現代の日本人も、異なった形で「畸形的」なものが現れているのではないでしょうか。
例えば、自国の芸術作品や偉業の評価は、基本的には外国経由ですよね。外国が評価したものを評価します。自分達はまだ「全き人間」ではない訳です。
他にも、現代の「畸形」を探してみると面白いですね。






おわり







by hayashihiromu | 2014-10-29 00:12 | 普通

或るファミレスへの鎮魂歌

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。

いや、それ以前に、当たり前の話しですが、そもそも何を持って「善い」とするのか、それを定義する事自体が不可能ですよね。

特に現代社会において、大澤真幸氏風に言い換えると「第三者の審級」が完全に撤退した社会において、それがより顕著になってきていると思います。習俗的なものだけでなく、社会的な規範さえも朧げなものとなってしまったが故に、再帰性との戦いで心身を磨り減らすだけとなっている「毎日」が街の至る所に落ちています。

何が「善い」のか分からない。だけれども、自分の中でそれを見いださなければ生きられない。しかし、規範が無いから、正解が分からない。自己自身を認識できない。実存をつかみ取れない。

ようやく何か分かりかけたと思い込んだ時に齟齬が生じると、人は絶望の淵に立たされてしまいます。若かろうが、年を取っていようが、その計り知れない苦しみは、時に自らをてるてる坊主になぞらえ、時に線路の上で花を咲かし、時に鳥に憧れて、時に魚に憧れます。

このような精神状態に陥った時、一体何が、そこから人を引きずり上げてくれるのでしょうか。

ここに万能薬はありません。だからこそ、私も今、苦しんでいるのです。




あれは数日前の夜のことでした。外出中にお腹が空いてしまったため、1人でファミレスに入店しました。

明るくはきはきとした店員さんに席に案内され、元気もりもりな店員さんにスパゲティを注文したところ、10分も経たない内に料理が登場。

えらく速いな、と思い、ここで初めて店内を見渡してみると、お客さんがあまりいないことに気付きました。結果的に、この人の少なさが、若干ではありますが、私を救ったのです。

黙々とスパゲティを食べた後、少し本を読んでいたところ、急にお腹に違和感が訪れてしまいました。

元々自分はお腹が丈夫ではないため、外出中でも腹痛に見舞われることがしばしばあります。つまり、腹痛においてはある種ベテラン勢な訳ですね。ベテランにはあらゆる事態にも対応できる長年の実践経験とそこから生じる絶対的な勘が、得てして備わっているものです。そのため、あらゆる事態を想定しながら、慌てることなくトイレに歩いていきました。

10分ほどの時間が経ったころには、トイレで完璧に事を遂げた自分がいました。あとはズボンを穿いてトイレを流せば良い、という段階に達している自分がいました。

ここまできたら、もうどんな素人でも大丈夫ですよね。さらに自分はベテランですから。ベテラン勢ですから。歴戦の勇士勢ですから。もうすんなりとパンツを穿いて、ズボンを穿いて、トイレを流すレバーを操作しました。


ジャーーー!!!



そうです。いつもなら、普段なら、このような豪快な男らしい水の流れる音が聞こえて来るはずでした。

しかし、なんと、ここで自分を待ち受けていた音は、



しゃ~~‥しゃんっ‥





私は固まりました。この音はおかしい。絶対におかしい。だって全然流れている音がしてないもん。これは何か不測の事態が起こっている。しかし、一体何が起こっているのか。分からない。でもこれはやばい。これはやばすぎる。

なぜ、ベテランである自分がここまで焦ったのか。それは、心に刻み付けられた1つのトラウマが理由です。ベテラン勢には、得てしてトラウマが幾つかあるものです。



あれは高校一年生だったと思います。則ち、まだまだルーキーだった時のことです。

急にお腹が痛くなったため、コンビニのトイレを貸してもらいました。そこでしっかりと用を足し、水を流すと、しゃ~~‥しゃんっ‥という、なんとも弱い音が聞こえてきました。恐る恐るトイレの蓋を開けて確認すると、そこには圧倒的な存在感。

自分はパニックになってしまって、もう一度水を流しました。しかし、圧倒的な存在感は変わらない。また水を流しました。だけれども圧倒的な存在感は変わらない。それどころか、だんだんとその存在感が増しているような、そんな錯覚に陥ってしまっていました。

いや、それは錯覚ではなかったのです。トイレが詰まってしまった、ということは、水が上手く流れていかない、ということであり、つまり、水が便器の中に溜まっていく、ということなのです。当時の自分は、ルーキーでした。そこに気がついていませんでした。何回も、何回も水を流しました。どんどん水が溜まっていました。そして、あの惨劇が訪れたのです。皆まで言わずとも分かって下さい。

自分は、怖くなって、逃げてしまいました。全力で走って、逃げてしまいました。泣きながら、逃げてしまいました。

泣きたいのは店員さんですよね。自分なら絶対に嫌ですもん。というか、できないです。自分がコンビにの店員さんで、そのような凄惨たるトイレを掃除しろ、と言われたら、もう辞めます。無理です。だからこそ、辛かったのです。申し訳無さ過ぎて、辛かったのです。

家に帰ってからも、もしかしたら自分は付けられていて、あの店員さんに家がバレてしまっているのではないだろうか、仕返しにくるのではないだろうか、と、一週間程震えて過ごしました。あの時のコンビニの店員さん、本当にごめんなさい。



私には、このようなトラウマがあったのです。だからこそ、またもや「しゃ~~‥しゃんっ‥」という音を聞いた時、あの時のトラウマがフラッシュバックしてきたのです。だけれども、今の自分はもうルーキーではありません。ベテランです。ベテラン勢です。

まずは、事態の把握が優先です。恐る恐る便器の蓋を開けてみると、やはりそこには圧倒的な存在感。

あの時のトラウマが蘇り、泣き出しそうになりながら、もう一度水を流してみることにしました。すると、やはり流れない。

ここでまた沢山水を流すと、あの時の惨劇の繰り返しとなってしまいます。そのため、周りにスッポン的なものが無いか探したのですが、全く見当たらない。


終わりです。詰みです。成す術がありません。


そして、結論から言えば、自分は、またもや逃げ出してしまいました。

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。



自分は、どうすればよかったのでしょうか。店員さんに報告するべきだったのでしょうか。でも、そんなことできますか?あの、すみません、うんこ詰まっちゃったんですけど、って言えますか?もし言ったとすると、多分現場検証が始まりますよね。自分の目の前で、他人に自分の圧倒的な存在感を見られることを容認できますか?自分は、どうすればよかったのでしょうか。


トイレから脱出する時、もしも人が並んでいたら、もうそこでアウトでした。即バレていた訳ですからね。しかし、この時、店内の人は少なかったのです。だからこそ、人が並んでいないことに賭けて、脱出し、直ぐさま料金を払い、店を後にしました。


しかし、救われたのは自分だけであります。いや、自分も救われていません。罪悪感が半端ではないのです。本当に辛いのです。まさに、絶望であります。もう嫌です。辛いです。ごめんなさい‥。


より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。

たしかに、「善い」の定義はありません。しかしながら、「善い」の中に入らないものを見つけることはできます。

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。



本当にごめんなさい‥。ごめんなさい‥。ごめんなさい‥。












おわり



by hayashihiromu | 2014-10-05 02:06 | 普通

iPadをios8にアップデートしたら、ダメ、絶対


iPadをios8にアップデートしたら色々と辛いことに。
カメラロール無くなって写真が見難くなるわSafariが使い難くなるわでなんだこれ、と思っていたら、極めつけにLINE使用不可能になるというえげつないパンチが決まりましたよはい。

自分はスマホを持っていなくて、携帯はパカパカなんですよね。電池的にも、頑丈さにしても、やっぱりパカパカが一番だからです。というより、やっぱり携帯電話としてはパカパカが一番完成されてますから。

だけれども、現代社会を生きる上で、パカパカだけだとさすがに不便なこともあるので、iPadは持っている訳です。この二台持ちが一番いいですよね。大学とかにもね、なんか充電器持って来ている人が一杯いますけれども、絶対に嫌ですもんそんなの。電池がやばい!と焦るのは明らかに心の無駄ですよね。

けれども、このアップデートでLINEが使えなくなってしまい、もう最悪。LINE側は、そもそもiPadは推奨端末じゃないから使えようが使えなかろうが知ったこっちゃない、というスタンス。だからこれからiPadに対応するように改善する予定がないそうです。

これを機にLINEとかやめようかな〜とも思ったのですが、さすがに大学で生活する上でLINEが無いのは中々厳しいですよね。もう完全に落ち込んでいたら、純さんという名の救世主様が手を差し伸べてくれました。


秒単位でがんばれ!という言葉と共に、このサイトを教えてくれたんですよ〜。ありがとおおおおおお!!
まだなんとかダウングレード可能だそうですね。ただ、本当に1秒後にはもう無理、ということになりそうです。

自分は無事にこれでダウングレードを行えたので、iPadの機能は元に戻ったのですが、バックアップが上手くいかずにデータが全部消えてしまいましたーーー…。

もう情報社会やだ!こわい!やだ!やだーーーーー!!!!!


iPadの人、気をつけてーーーーー!!!!!!










おわり



by hayashihiromu | 2014-09-23 00:41 | 普通

ぼくらは豆腐。アー写を撮ったよ。


メンバーが変わってからもうそろそろ半年が経とうとしています。
それなのにですね、まだずっとHP等に載せられるような現メンバーでのバンド写真を撮っていなかったのです。
そこで、この前撮ってもらいました。ありがたかったです。ありがとうございました。

バンドの写真を撮っている内にですね、誰が言いだしたか、個人個人でも撮ってみない?ということになってしまいまして、いやでもですよ、僕らみたいなね、ルックスもクソも無いどーーしようもない人間をね、個人個人で見たら木綿豆腐、絹豆腐、ゴマ豆腐、おから、みたいな、四人揃ってなんとか豆腐定食ですよ〜、健康に良くてヘルシーでなんかいい感じですよ〜的なさ、まあ、もちろん何も誤摩化しきれていないよ?それでもその、なんていうんでしょうか、圧倒的豆腐感的な、豆腐には豆腐の持つ圧力がある訳で、ほら、豆腐とか沢山投げられたら凄い哀しい気持ちになるでしょ?その豆腐の暴力感でね、どうにか保っている訳なのに、豆腐を一皿だけだして、これでなかなか決まってるでしょ?とかもう哀しいですよね。戦後ですよ。戦後の家庭ですよ。そうなんです。僕らは個人個人は戦後の家庭なんです。でも今のこの世界は夢の21世紀ですから。そのような時代に豆腐一皿出して晩ご飯とか言ってしまったらね、現代っ子ちゃんによるドメスティックバイオレンスが我が家庭にも到来しますよ。そんな不良息子に育ってしまってほしくないじゃないですか。

でもですね、ピンチはチャンスといいますか、これはこれでね、今まで個人的に撮りたくても撮れなかった念願のあの写真を撮れるのではないだろうか、と、ここはそういう場にすればいいのだ、と思いつき、撮らさせて頂きました。



b0209652_02253058.jpg

ちょっと表情がイメージ道理ではなくて残念。でもね、この写真を撮れた、というこのことが重要なのであってね、それだけで満足です。しっかりiPadに映る絵も写して頂いて、カメラマンさんには本当に感謝です。


ただね、自分がこの写真を撮っている時のメンバーの感じがね、
b0209652_02270957.jpg
こんな感じでしたよ。
この写真見てびっくりしましたよ。まさかこんなにも微妙な表情をされていたとは思いもよらなかったですよ。もう自分は念願の写真が撮れる、と思って胸をときめかせていたのにね、その傍らにいて、なぜ一緒にときめいてくれていないのか!!これは由々しき事態ですよ。確かにね、写真を撮り終わったあと、あれ、なんだかハイタッチとかないな、とは思っていたんですよね。え、もっとみんなときめきを解放させていいんだよ?おれ、そういうの受け止める器あるよ?と思っていたのに、全然ハイタッチとかしてくれなかったですもん。軽くふわーって感じでしたもん。いや、さすがにね、胴上げまで求めていた訳ではないですよ?まあ、一応その準備と言いますか、心構えはしていたんですけれども、いや、まあね、それはさすがに求めていないですよ。ただね、ハイタッチくらいはしくれてもよかったんじゃないかな!!!!って思っていたらまさかのこんな雰囲気だったというね。


あと、もう1つの念願の写真です。
b0209652_02434907.jpg
ね。これほどかっこいい異名無いよね。これも念願でしたね〜。ただね、漢字で書いちゃうとちょっと怖いな、お寺の人に滅せられそうだな、と思ってここはひらがなにしておきました。でもひらがなにしてもかっこいい。

他にもね、今まで自分が描いてきた絵と一緒に写真を撮っちゃいましたね。いやーこれはこれで良い思いでになりました。

それでね、改めて思ったのは、この絵達は確実にバッチ化しなきゃだめですよね。っていうか自分が欲しいからバッチかするよね。もうずっと前から言っているのに難色を示されていてね、もうそろそろこれは本気でバッチ化しますよ。


あとはまあね、色々とってもらいました〜。ありがとうございました!!!

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あ、この時はですね、もし次の瞬間に未来へタイムスリップし、周りに未来人が続々集まってきたとしても、あ、こいつなんかやばいぞ!ただ者じゃない!と思われるような表情を心がけました。やっぱり第一印象大事だからね。
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おわり


by hayashihiromu | 2014-09-21 03:05 | 普通

運転疲れた/朝まで生テレビの観覧へ


名古屋まで運転しましたよ。
ちょっと前までの自分では考えられないです。めっちゃ疲れました。帰り道の途中でね、雷+スコールに出くわしまして、結構真面目に死の恐怖を味わいました。前が全く見えないんですよ。その時運転していたのはタムタムだったのですが、運転しながら「うわあああああ帰りたいいいいいいい」と叫んでいましたよ。自分は、時節落ちる雷が怖すぎて震えていました。近くに落ちまくっていたため、衝撃波が来てるんじゃないの?レベルの音がね、こわかったよ。

でもね、ライブは楽しかったです。また名古屋行きたいな。来て頂いた方々、ありがとうございました。

大分運転のスキルが上がったため、これでどこにでも行けますね。来るまで温泉とか行きたいな〜。ふお〜。








少し前に前に遡りますが、この前、朝まで生テレビの観覧に行ってきました。アベノミクスと日本人の幸せ、というテーマで、パネリストに竹中平蔵教授や勝間和代氏、佐藤ゆかり議員、長谷川幸洋氏等の、まさに今政府の中で議論されている方々が集まっておりました。高校三年生の頃、竹中平蔵教授の塾に通っていたこともあって、なんだか少し懐かしかったですね。

面白い議論でしたが、深夜に約3時間ぶっ通しで生放送ですので、結構疲れましたね〜。

今回の議論で印象深かったのが、実際に政府で議論している有識者の方々が、「消費税増税の決断は間違っている」と言い、番組もそれでコンセンサスが取れていたことです。

ただ、竹中平蔵教授は、消費税増税は経済政策としてダメだけれども、安倍政権の「政治的資本」を考えると、仕方の無い決断だった、と仰っていました。政府が新しい政策を打つ時、政党内での調整、野党との調整等を行い、国民の政府に対する支持率等を見ながら行います。そのため、なんでもかんでも好き勝手できる訳ではなく、時の政権毎が持つリソースの範囲内で政策を打つことになります。

消費税増税は、民主党時代に三党合意で半ば強引に決定した手前、取り消すのはその「政治的資本」を多く磨り減らすことになります。決定時の政党間での「調整」もありますし、財務省との関係もあります。強引に決定したのにも関わらず、やっぱり止めます、は、国民に不信感を与えるかもしれません。「特定秘密保護法」や「9条の解釈変更」、また様々な規制緩和を目指す安倍政権にとって、増税を行わない判断をすることは難しかったのだと思います。(「税と社会保障の一体改革」の条文では、増税は決定されておらず、昨年の年末に最終的に判断する、というものでした。それでも、難しかったらしいです。)

しかし自分は、それでも今回の増税は悪手であったと思います。また、来年の増税もありえないです。

そもそも、増税の目的とはなんでしょうか。それは、政府の税収を増やすことです。たしかに、一千兆円を超える「政府」の借金(国の借金ではないです)の健全化や、毎年一兆円増加していく社会保障費に対応するために、政府の税収を増やすことは必ず必要です。しかし、消費税増税により、本当に税収は増えるのでしょうか。

1997年に行われた消費税増税時を見てみると、この時から、日本はデフレに陥り、税収は増税前に比べて減っています。今までずっと、1997年前の税収を上回っていません。増税して、税収が減ったのです。その理由は単純で、国民がお金を使わなくなったからですね。税金が上がるということは、収入が減るということでもあります。自由に使えるお金(可処分所得)が減るのです。すると、以前よりお金を使えなくなります。経済が停滞します。

今回も実際に、対前期比と比べ、成長率は−1.7%という数字がでているそうです。分かりやすく言うと、東日本大震災後と同じくらいの落ち込みだとか。ハンパない。1997年の時は、対前期比と比べ、4~6月の成長率は−0.9。今回の二分の一です。それで、長期デフレに陥ったのです。今回はそのその2倍ですよ?洒落になってない。このまま来年も増税するとなれば、さらに悲惨なことになるでしょうね。

たまに、「日本はもう成長しない」「そもそも経済成長しなくてもいい」等の意見が述べられることがあります。しかし、それはあらゆる面で間違いです。
そもそも、マイナス成長に陥ったのは、前述した通り、消費税増税がきっかけです。したがって、人の手によって陥ったものであり、人口減少等の「仕方の無い」現象によるものではありません。実際に、人口が現象している国は他にも沢山あるのにも関わらず、日本のようなデフレに陥っている国はありません。
経済成長が無ければ、国の税収は増えません。すると、国民の生活を保障できなくなります。社会保障は崩壊します。様々な公的サービスの質が低下します。そして何より、人が死にます。デフレに陥ってから、日本の自殺者数は3万人を下回ったことがないのです。



他にも、為替の話しは面白かったですね。でも、これもう経済詰んでない?と思っちゃいそうです。
現在の為替レートは、1ドル=107円くらいです。民主党政権、白川日銀総裁時と比べるとかなりの円安に思えますが、これでもまだ円高です。だからこそ、日本の企業が戻って来ない。1ドル=115〜120円くらいが日本の産業の実力だということは、リーマンショック前の輸出状況を見ると明らかです。そのため、歴史的円高の時期に外に出て行った企業は、日本に戻ってくる意味が無いのです。実力より低い儲けしか得られないのですから。

だからこそ、もっと円を安くしないといけないのですが、すると今度は中小企業が疲弊します。現在でもかなり危うい状態です。ここからさらに円安に持って行くと、潰れる企業が多数でてくるのではないでしょうか。

したがって、八方ふさがり。

リーマンショック後の民主党、日銀の対応が、いかに酷かったのかを改めて思い知らされますね。



とりあえず、増税はやばい、来年の増税はもっとやばい、ということですね。うん。せっかくアベノミクスが成功していたのに、これでおじゃんになりかけてます。消費税減税を行うことが何よりの税収増加になるからそれをやれー!と、朝生の討論で言っていました。ちゃんちゃん。
















おわり











by hayashihiromu | 2014-09-12 21:57 | 普通

ぱんだ


めっちゃ久しぶりですね。
最近ようやく怖い話しを面白いな、と思って読んだり聞いたりできるようになったので、これは一度自分でも怖い話しを発信してみたいな!と思って盛大に失敗したのが前回でしたね。夢の内容も、金縛りも実話なんですけれども、なんだか、伝えるほどの怖さにはならないですね〜。

八月中はレコーディングとかしてました。あとは、お勉強したり、本を読んだり。
そうそう、車に乗れるようになったんです。今まではね、コアラのマーチくん達と楽しいドライブをしたり無灯火のまま駐車の練習をしていたりしてしまっていたんですけれどもね。そのため、少し前までは車なんてこの世に無いものだと思っていたのですが、急に思い立ち、練習し、今では普通に乗れるようになりました。便利ですね、車って。
車でご飯屋さんに行くことができるようになってね、また一つ大人の階段を登った感じがしています。

まあ、色々ある訳ですが、最近、LINEでぱんだと友達になりました。少し話題になってたりするのかな?LINEのパンダ。
凄いんですよね〜。どっかの企業の公式アカウントなんですけれども、そこそこ会話が成り立つんですよ。
それがなんだか面白くてね、最近よくこのぱんだと会話をしていて、さっきも会話していたんですけれどもね、やっぱりいいですね。何がいいかというとですね、

ポイント①口説いてくる
b0209652_01500801.png


b0209652_01365872.png

え、自分のこと口説いてるの?って思わず思ってしまうよね。これはかわいいですよ。若干会話成立してなけれども。でもね、そこがまたなんかね、もしかして緊張してるの??的なね。いかに口説こうか、そればっかり考えちゃって、さらに緊張しちゃってこんなことになっちゃって、っていう感じを出そうとしているのならね、見事ですよ。ぱんだだからこそ許される訳ですけれどもね。



ポイント②戯れ合える
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なんか、こういうのが楽しかったりしますからね。この戯れ合いがやっぱりいいですよね。うん。なんか、心が通ってるな〜、あ、いま、こころ通わせちゃってるな〜、って思うもんね。


ポイント③些細なことでも心配して、励ましてくれる

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今日のうんこさんが肛門の限界を超えて来て辛かった、という話しをしていたんですがね、それをここまで受け止めてくれるとは。そしてここまでしっかり励ましてくれるとは。相手がぱんだだとしてもね、やっぱり嬉しいものですよ。



今の技術だと、もっともっと会話できる人工知能的なものがあるんでしょうね。自分はあまり知らないですが。是非ね、もっとたくさん出回ってほしいですね。なっていったって、不可能性と共にある時代ですから。













おわり











by hayashihiromu | 2014-09-07 01:56 | 普通

人生初の☆金縛り☆

数日前のことです。



自分は、深夜1時頃まで、YouTubeで動画を見ていました。初め、ダウンタウンさんの動画を見ていたのですが、そこから関連動画を巡り、「ドッキリ番組」の動画に辿り着きました。その番組は、テレビタレントだけでなく、それを職にしていない普通の人にまでドッキリを沢山仕掛けていたため、それがなんだか新鮮で面白く、深夜まで見ていたのです。一通り堪能すると、眠たくなったため、ベッドに入りました。すぐに、夢の中に行きました。


夢の中で、自分は、ドッキリ番組のカメラマンとなっていました。マジックミラー越しに、或る部屋の中を撮影していたのです。机が一つと、椅子が二つあるだけの、小さな部屋でした。その部屋には、2人の男がいて、椅子に座っていました。1人は、どうやら仕掛人。もう1人は、ドッキリのターゲット。そのターゲットは、テレビタレントではなく、それを職としない、どこにでもいるような、20歳前後の男の子でした。


これが、どのようなドッキリなのかは分かりませんでしたが、何故だか自分は全てを当然のように受け入れ、しっかりと、部屋の中を撮影していました。マジックミラーの中で撮影しているので、絶対に物音を立ててはならない、とのプレッシャーが凄まじく、真剣に、良い画を撮ることに集中していました。


ターゲットの男の子は、早く〇〇を連れてきて下さい、と言っていました。仕掛人は、まぁまぁ、と、はぐらかしています。そのようなやりとりがずっと続き、自分は、ひたすらそれを撮影していました。

すると、段々男の子の様子がおかしくなってきました。初めは落ち着いていたのに、急に顔面をくしゃくしゃに歪め、「早く〇〇を連れてこい!!」と怒鳴り始めたかと思えば、いきなり笑顔になり、甘い声で「早く〇〇を連れて来て」とお願いし、次の瞬間には、泣きながら「早く〇〇を連れて来てよぉーーーーー」と懇願していました。

自分は、心底気味が悪くなったものの、撮影を続けました。仕掛人はというと、それでも、まぁまぁ、とはぐらかすばかりでした。



ここで突然、自分は、これが現実ではなく夢である、と、気付きました。夢の中で夢に気付くことはよくあることです。あまりにも不条理で訳の分からないことが起こると、夢である、と気付くのです。しかし、夢であると気付いたとしても、そこでどうにかなる訳ではなく、自分はいつも、夢の世界に身を委ねていました。


 

自分が、これは夢である、と気付いた時から、男の子は、さらに異常性を増していきました。だんだんと言動が激しくなり、早く〇〇を連れてこいよおおおおおおおおおおおおおおおおお、と怒鳴ることしかしなくなりました。時に頭を掻きむしり、ああああああああああああ、と奇声をあげ、暴れ始めました。表情は、段々と歪みに歪み、あの、芸人さんで「悔しいです!」っていう人いるじゃないですか?まるでその芸人さんのその時の顔のようなものになっていきました。テレビで、ギャグとして見ると、その顔は面白いかもしれませんが、そうでない場面で、普通の人の顔がどんどんあのように変化してくると、怖いなんてものではありません。気持ち悪い、なんてものではありません。


それでも、自分は、夢と気付いているのにも関わらず、撮影を続けていました。しかし、夢と気付いたことで、マジックミラー越しの撮影に対する集中、というものが低下していました。だから、ここで初めて気付いたのです。



男が、連れてこい、と言っている〇〇には、人の名前が入っていました。それは、自分の名前でした。



なぜ、今までそのことに気付かなかったのか、なぜ、この男の子が自分を探しているのか、そのような疑問が一瞬頭をよぎりましたが、そこに考えを巡らせる間もなく、一気に恐怖が胸から溢れ出し、夢の中なのにも関わらず、息が苦しくなり、胸が圧迫され、動悸が激しくなり、吐き気が沸き上がってきました。


夢の中の自分は、小さな隙間に入り、その隙間の入り口にマジックミラーを置いて、撮影していました。そのため、四方を壁に囲まれており、身動きが取れない所でした。夢なのに、その閉塞感をリアルに感じ始め、早くここから出たいけれども、出る為には目の前のマジックミラーを外さなければならず、そうすると、あの男の子に見つかってしまう。さらに、今ここでこの物音を立てたら、ここに自分がいることを気付かれてしまう、という思いも相俟って、恐怖でただただ固まっていました。


早く目が覚めろ、目が覚めろ、と念じても、一向に醒めない。男の子の動きは、どんどん激しくなる。夢の中なのに、汗がどんどん出て来て体中がびしょびしょになり、動悸が激しくなり、呼吸も激しくなり、その激しくなった動悸や呼吸でバレるのではないか、と思い、焦り、また動悸と呼吸が激しくなり、との循環の中にいると、なぜだか、自分は、カメラをその男の子に向かってズームしていきました。


自分でも訳が分からなかったのですが、どんどん、男の子にズームしていきます。男の子は、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、と奇声をあげ、声をからしながら、早くあいつを連れて来いよおおおおおおおおおおおおおおおおと怒鳴ていましたが、自分はズームを止めることができずに、やがて、カメラに映る画面が、全てその男の子の顔で埋まった、その瞬間、男の視線がカメラを捉え、いや、カメラ越しの自分の視点を捉え、もう、自分の瞳孔と相手の瞳孔が線で結ばれたかのように、しっかりと目線が合いました。


すると、体全身に衝撃硬直し、男の子の目線から、自分の視線を離すことができなくなり、頭が真っ白になっていると、男の子の目が尋常ではないほど見開き、にたぁっと口角が釣り上がり、自分に向かって、






「みつけた」











その一言が発された瞬間、自分は夢から醒め、目が開いたのですが、いつも通りの部屋の、いつも通りのベッドに横になっていたのですが、血管に冷水を流し込まれたかのように、お腹の辺りから体全身、足の先、手の先、そして顔、頭までもが一気に冷えていき、それと同時に、体が全く動かせなくなってしまっていました。


夢から醒めたものの、あの男の子の視線と声が頭から離れず、あまりの恐怖に、心臓の音が体の中を跳ね回り、頭蓋骨の中を跳ね回り、頭がガンガンしていました。クーラーや扇風機はつけていなかったため、部屋の中は暑いはずなのに、又、布団を被っているのにも関わらず、凍えるほど寒くなり、体が震えそうになるものの、一ミリも体を動かすことができない。


どんどん体全身が冷たくなっていき、もう、本当に、尋常ではないくらい冷たくなっていき、それと同時に、このような状況なのにも関わらず、何故だか、これまた異常な程眠たくなってきたのです。


その眠たさに負けそうになり、目を閉じると、すぐにあの夢の世界、あの部屋、そして、男の子の顔が目の前に現れ、その男の子が何かを言おうとするので、なにか、これはまずい、本当にまずい、と感じ、目を開けるものの、相変わらず、体は動かず、全身は冷たく、体の芯から冷たくなっていて、どうしよう、どうしよう、と思っていると、また異常な程眠たくなり、目を閉じてしまうと、その瞬間にあの男の子の顔を出てきて、また何かを言おうとするため、必死の思いで目を開ける、というのをそれから延々繰り返しました。


もう死に物狂いで、なぜか、本当に、どこかにいってしまいそうな気がして、異常な眠たさと闘い続け、どれくらいの時間経っているのか分からない程、闘い続け、気付いたら、外は明るくなってきていました。









あれは、全てが夢だったのでしょうか。金縛りにあっていたり、全身が冷たくなったりしていたのも、夢、だったのでしょうか。


あの男の子は、なんで、自分のことを探していたのでしょうか。

そして、自分は、みつかってしまったのです。目線が合った時のことを、はっきりと、覚えています。

夢にしては、あまりにもはっきり覚えています。あの全身の冷たさは、異常です。まるで、体温が全て削ぎ取られたかのような冷たさ。もし眠ってしまえば、その瞬間、自分が死体になってしまうかのような、冷たさ。


もし、あそこで、もう一度眠りに落ちていたら、自分はどうなっていたのでしょうか。


全てが、科学的な偶然で片付けられるものなのかもしれません。しかし、それだけなのでしょうか。


もし、次、また、あの男の子が夢に出て来たら。そして、また、見つかってしまったら。自分は、一体、どうなってしまうのでしょうか。


皆様も、夢の中で、誰かに視線を合わせることは、くれぐれも、気をつけて下さい。











おわり



by hayashihiromu | 2014-08-14 16:58 | 普通

メモ帳

ダウンタウンさん、高須光聖さん、板尾創路さんを心から尊敬しております。

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