ヘンリーヘンリーズのギター担当。


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「無知の知」の誤り

昨日の記事で、最後に触れた「無知の知」の誤り。
今回は、これをもっとちゃんと書いておこうかなと。
教授のキャンペーンにわずかながらも貢献できたらな、と


まず第一に、文献的な誤り。
これは昨日触れた通りです。プラトンの著作の中で、ソクラテスは、一度も「無知の知」や、「知らないことを知っている」と言ったことは無いそうです。
「無知の知」の出典であるとされる「ソクラテスの弁明」において、確かに似たことを言っている箇所は2つほどあります。しかし、それはあくまで似ているだけだそうです。


次に、哲学的な誤り。
これは、「知る」と「思う」の違いです。
上記で、「ソクラテスの弁明」におけいて「無知の知」の意味合いと似た箇所があると書きました。その「似た」というのが、まさにこの「知る」と「思う」なのです。ギリシャ語を訳してますからね。これが混同されるらしいのです。しかし、特に、プラトン哲学的にみて、絶対に区別しなければならないのがこの二つだそうで、だからこそ教授はげきオコスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム状態なのです。

では、「知る」とは何か。端的に言うと、論拠がある、ということです。
なら、「思う」とは何か。これも端的に言うと、「知る」とは逆で、論拠が無い。ということです。
例えば、3辺が3:4:5の比をなす三角形が直角三角形であることは、みんな分かると思います。しかし、その事実をちゃんと「三平方の定理」で証明できなければ、それは「知っている」のではなく、「分かると思っている」だけなのです。証明できないのに「知っている」というのは、まさにソクラテスの批判する「思い込み」であります。

つまり、「無知の知」、「知らないことを知っている」とは、「無知」というものに対してソクラテスが高次にいることになり、「無知」というそのものを体系的に、論拠を持って説明、証明できるということになるのです。

それに対して、「知らないと思っている」とは、ソクラテス自身も他の人間と同じように、「無知」の中にいることになります。自分は「無知」の中にいると思っているのです。
ソクラテスは、自分のことを、「無知」を高次レベルから見て、「無知」というそれ自体を説明できるような特別な知者だとは思っていません。しかし、自分は「無知」のと同次元の中にいると思っている、という点において、他の人と「違う」ということとを述べたのです。
したがって、「無知の知」という言葉は、哲学的に間違っているのです。


最後に、歴史的な誤りです。
そもそも、海外では「無知の知」という言葉は使われていません。
ただ、ローマ時代には近い表現で、「無知の知」的なことは言われていたらしいです。ここら辺はちょっとぼーっとしてて講義聞いてなかったんだ(`・ω・´)
では、初めて「無知の知」という言葉が日本で使われたのはいつか。これは教授が図書館に何日も籠って頑張って探したらしいです。そして見つけた一番古い例が、1929年6月に東北大学の高橋里美さんが書いた論文だそうです。比較的新しいですよね。プラトンって紀元前ですから。
その後、なんかドイツで誰かが近い言葉を見つけて、あ、それソクラテスっしょ?みたいな感じで輸入してみたいなことも言ってた気が。ここら辺もちょっとぼーっとしてて講義聞いてなかったんだ(`・ω・´)
まあ、そこまで重要じゃなさそうなので。

で、いつの間にやら教科書に書かれ、入試にも出るようになり‥。という経緯だそうです。


まあ、だから「無知の知」という言葉をソクラテスと関連づけて出すのはやめた方がいいんでない?ということです。でも、自分個人としては、もう「無知の知」という日本語はあるので、これは普通に使ってもしょうがないと思うんですよね。よくあるじゃないですか。故意犯の意味で確信犯って単語を使っちゃうみたいな。ん?ちょっとちがうか?


まあ、詳しく知りたい人は、納富信留教授訳の「ソクラテスの弁明」を手に取ってみたらどうでしょうか。解説に色々書かれています。「ソクラテスの弁明」自体、小さな文庫で100ページくらいです。暇な少しの時間を濃い時間にすることができるのではないでしょうか。

自分は法学部生ですが、哲学はとてもためになりますねー。具体的内容というよりかは、やる気に影響しますね。色々自由な発想ができるようになるんじゃないでしょうか。
















おわり
by hayashihiromu | 2013-05-29 23:01 | 普通

プラトン

大学の課題でプラトンに関するレポートを書きました。
といっても、自分は法学部生なので、ただの教養科目としての、そのまたさらに入門レベルのやつです。
元々、自分は哲学に対する興味はあまり持っていませんでした。
ただ、高校の時に経済思想や政治学の本を読んだり、話しを聞いたりしていく内に、哲学とはやはり我々社会の、もっと絞れば西洋社会の重要な根幹部分を担っていることを感じていました。そのため、今までは、近代哲学の入門書的なのをパラパラと読んでみたりはしていたかな。それもデカルトやカント、ハイデガー等の有名なやつです。なのでニーチェとかの現代哲学は何も知らないですし、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの古代哲学なんて、名前は聞いたことあるけど、うん、それだけ。中世哲学なんて、存在も知らなかったです。
そんな自分だけれども、せっかく大学に入ったので、哲学の原点である古代哲学を取ってみたわけです。
そしてそれは正解でした。楽しみな授業の一つです。まあ、基本的に全部楽しいんですけどね。

最初は「哲学」とは何か、ということを中心に講義が行われましたね。

「哲学」

哲学って言われても、なんかようわからんですよね。イメージし辛い。さらに、なんか理屈っぽいというか、無意味なことしてる、みたいなマイナスイメージも付き纏います。

では、哲学の語源とは何なんでしょうか。

それは、「phiro-sophia」です。まぁ、これは知ってますよね。これは、古代ギリシャ語で「知を愛求する」という意味だそうです。知を愛し求める。
「phiro-sophia」という言葉を最初に作ったのは、あのピタゴラスさんだそうです。当時この人は宗教団体の教祖様的な存在だったらしいですね。もう気持ち悪いくらいなんでも知っていたそうです。あ、ピタゴラスの定理っていうのは、別にピタゴラスが最初に発案したんじゃないらしいですね。なんでも知っていたから、そのようなイメージがついて、そう呼ばれるようになっただけだそうです。どうせこの法則もあの何でも知ってるキモいおっさんが考えたんだろもうそれでいいよ気持ち悪いしあいつの名前勝手に付けてやろうぜははははは的な軽いノリらしいです。

そんな何でも知っているピタゴラスさん。
そのピタゴラスさんに対し、ある日、偉い人がこう言ったそうです。

「あなたはsophos(知者)ですね」

すると、ピタゴラスはこう答えました。

「いいえ、私はsophos(知者)ではありません。phiro-sophos(知を愛し求める者)なのです」

どういうことか。
ピタゴラスは、「sophos」とは神だけであると考えていました。したがって、人間は永遠に「sophos」にはなれない。言い換えると、人間は永遠に不知であると言うのです。そして、人間は自らが不知であると自覚する必要がある。その上で、知を愛求することが、人間の在り方であり、それこそが「phiro-sophos」だと言うのです。

中々すばらしいですよね。人間、自らがもう極めた、と思ったら、成長しなくなります。いつまでも、ずっと、自分はまだまだだ、という思いが、幾つになっても人間を成長させます。
そういう意味で、人間は永遠に不知です。そしてそれを自覚する必要があります。「知」だと思ったらそこで終わりですからね。でも、自らが不知だといって、そこで諦めたり、開き直ったりしたら、もうダメなのです。それもそこで終わりです。そうではなく、一生届かないと知りながら、それでも知を愛し、そして一歩でも近づくために求め、努力する。それこそが、人間の在り方だ、とピタゴラスは説いているのです。

これは教授も言っていましたが、そういう意味で、哲学とは学問ではないのです。そして、哲学者とは、哲学を研究している人のことではないのです。世の中の学問全ての根幹の精神が「phiro-sophos」なのです。全ての仕事にも言えると思います。というより、生きている人間全てにいえると思います。だから、全ての人間は哲学者でもあるのです。


なんか話しが前後するような気になりますが、日本語の「哲学」とは、どのように生まれた言葉なのでしょうか。

これは、幕末に西周という人が「phirosophia」を訳して作った言葉なのです。
一番最初は哲学ではなく、「希哲学」だったそうです。これなら、だいぶ分かりやすいんじゃないでしょうか。そのままですからね。でもなんかなんやかんやあって、1874年、「哲学」になったそうです。なんででしょうね。まあ、「希哲学」って言い難いもんね。

西周さんのエピソードも面白いんですけど、もうさすがにこの記事長い。っていうかもう誰もここまで読んでないよね、たぶん。途中で切ってるよね。

まあいいや。

そして、題名のプラトンの話しは一切せずに今日は終了ー。また明日書きます。明後日かもしれない。
こうやって予告して書いた試しが一度も無いのでね、フラグ立てちゃったね。さあどうなることやら。

まあ、でもこんな初歩的なことはもう皆知ってるのかな。自分は恥ずかしながら何も知らなかったから、少し感動したんです。


あ、予告といいますか、「無知の知」ってことばあるじゃないですか。ソクラテスの。今のピタゴラスの話しにも通じそうな言葉ですよね、「無知の知」。
でもね、この言葉使うと教授が激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームになるので、もうこんな言葉忘れて下さい。
教授曰く、こんな言葉ないそうです。ソクラテス一回もこんな言葉言ってないそうです。世界でも言われていないそうです。昭和の日本人が勝手に作ったそうです。
今、もう教科書にこんな言葉載せるなキャンペーンをやっているそうですが、何より入試に出ちゃってるので、中々難しいそうですね。

今日は以上!













おわり
by hayashihiromu | 2013-05-28 21:07 | 普通

スーツの日常

今日は一日スーツを着ていました。
なんかスーツはいいですね。化粧しているみたいな気がします。
化粧をしたことはないですけれど、なんか、そんな感じがします。
ピシッとなります。というより、ならなければいけないというか。
もの凄いしんどくても、背中に棒を入れて無理矢理直立の姿勢を保っているというか。さらに、スーツに合わせるように少し整髪料で髪を整えたりすると、増々、その棒が太くなります。

まだ大学一年生。スーツなんかあまり着たことがない。そして自分は日常で整髪料なんかつけない。故の、単なる非日常性がもたらすものだってことは分かっています。別にスーツがどーとかワックスがどーとかではない。なんでもいい。知らない所に一人旅しているのと一緒。

若い頃の松本さんの様に、自分もスーツのみ生活のとかやってみたい。
そうやって、日常と非日常を逆転させながら、そのサイクルの中で生きていきたい。




もう名刺が必要な年になったんだなー、と、なんだか大人な気分。
カードが届いたから、なんだか大人な気分。まだクレジットカードとキャッシュカードの違いがよくわからないけれど。
大人な気分って、つまり、心をコーティングするってことだと思う。想像が減っていく。ぽよんぽよんが減っていく。











おわり
by hayashihiromu | 2013-05-25 21:28 | 普通

そうだえっとあの電信柱まで

これはメダルを取ったマラソンの人の言ってた言葉ですよね。
このタイトルは竹原ピストルさんの歌の歌詞ですけど。『諸々、大丈夫だよ』って曲ですね。とても良い曲ですよ。

ただ、今回の意味合いは、メダルを取ったマラソンの人の言ってた言葉の方です。
どんなにどんなに苦しくても、「あの電信柱まで、せめて、あの電信柱までは」を繰り返して自分は走っている、みたいな言葉があります。あやふやでごめんなさい。でもこんな感じだと思います。
どんなに辛くても、しんどくても、そうやって生きていけばなんとかなる。これはそうだと思う。でもさぁ、その電信柱の設定を間違えてしまったら、もうだめです。わずかに残ってた気力までも全部飛んでいってしまいます。

例えば、あの電信柱まで行ったら少しだけ休憩できる。本当に、少しだけ。だから、もう辛くて辛くて色々なものを色々な所から垂れ流しながら、でもそんな恥も外聞も気にすることができない、それほどまでに追い込まれながら走っていて、でも、あの電信柱は休憩地点だから、さ、あそこまでいったら、休憩できるんだ。甘えだって分かってるけど、でも、こんなどうしようもない自分だから、これでも精一杯で、本当に限界で、でも、他の人より遅くなってもいいから、ゴールしたいんだ、だから、あの電信柱では休憩して、そしたら、またその先も走れるよね、頑張るよ、頑張れるよ、って。そんな気持ちで、ギリギリで、ふらふらしながら走っていて。そしたら、いざ辿り着く寸前に、神様が、いやいや、やっぱなんか違うわ、この電信柱がここにあると俺の美的感覚に合わないわ、みたいな、とても不条理な、そして絶対的な、誰もどうすることもできないような、ただただそれを受け入れるしかないような、そんな理由で神様がその電信柱を引っこ抜いて遠くの方に突き刺してしまったら。その時、まだ走れるのかなぁ。休憩できないばかりか、「目標に辿り着く」という、何事にも代え難い、一歩を踏み出せる自信を付けるチャンスまで奪われる。心のゆとりは少しも生まれずに、切羽詰まったまま、絶望を抱きながら、もう見るのが痛いくらい茫々とした、そして永遠と思えるほどの、そんな二つの定規で計られた計りきれないような電信柱との距離を直視してしまった時。気力は持たないよ。

視野が狭まっているだけっていうのはもちろん分かっている。これは、別の電信柱を探すってだけで解決する。神様が触った電信柱に固執することは、ある意味神様への冒涜です。だから、別の電信柱を探すってことが正解なんだと思う。それが合理的。

全部全部分かってる。でも、それができてりゃこんなんになってないよって。一種の開き直りだけど、間違ってるって分かってるけど、でも気力が吸い取られて、もう座り込んじゃったんだ。そんな今、気持ちの切り替えなんてすぐできるわけないじゃない。そんなこと言わないでよ。俺も分かってるよ。どうしたらいいの。ダメだって分かってるけど。もう分かんないんですよ。本当に分かんないんですよ。

って。

こんな感じになってしまう。
だから、「電信柱」の設定と「電信柱の設定」の設定は間違えないように。
ただ、電信柱の設定は、自由意志があるようで無い。
自由意志のある電信柱に、神様は興味を示さない。
いつだって、神様が興味を示すのは、自由意志の無い電信柱。

じゃあどうしたらいいのかな。どうしたらいいんだろうね。
強い人はいいよね。弱い人はどうしたらいいんだろうね。
ほら、時間は過ぎ去っていっているよ。それも様々な時間が。どうしたらいいんだろうね。
誰も待ってないよ。どんどん置いていかれているよ。
じゃあどうしたらいいのかな。分かんないよね。
そんなもんだよ。分かっていたら苦労しないよね。

そして、いつか、「期待」してしまう。「期待」するようになってしまう。
そうなったらもう、はい、おしまい。さようなら。























おわり
by hayashihiromu | 2013-05-22 20:31 | 普通

いつかのアラーム

自分は、何か特別な日、心待ちにしていた日、等の朝に、決まってある曲が流れるようにアラーム設定しています。当日の朝、目が覚めてまだベッドで少しうだうだしているであろう時間にその曲が流れるように、その日の前々から設定しています。

高校1年生から始めた取り組みですが、高校三年間でこの曲がアラームとして響いたのは片手の指で数える程度でした。いつもとちょっと違うライブの日だとか、友達と旅行の日だとか、尊敬している人にお会いする日だとか、受験の日だとか。そんな特別な日に、より特別性を高めるため、そして自分のテンションを上げて、より良い一日、充実した、より楽しい一日になりますように、そんな願いを叶えるために始めた取り組みです。しかし、いざ始めて見ると、なかなかそのような特別な日というのは希少性の高いものでありまして、中々その曲とお目にかかれないような日がずっと続いていました。なぜか逆に意地になり、よっぽどの日じゃないとこの曲がアラームとしてかかる日は作らないぞ、と、若干本末転倒気味というか、目的がなんなのか分からなくなってしまい、いよいよ部屋へ流れてくることはほとんどありませんでした。
結果、高校三年間でこの曲がアラームとして響いたのは、片手の指で数える程度だったのです。

けれど、高校を卒業してから、とたんにこの曲がアラームとして流れる回数が多くなりました。たった二ヶ月足らずで、両手で数えられるほど、部屋へ流れてくるようになりました。こんなにたくさん流しては、その希少性が失われてしまう、との怖さを覚えたことも一瞬あります。
特別性が特別性たる由縁は、その特別性、希少性に起因するものであり、それが失われるということは、最早なんの意味も持たない、そこらへんに転がっている無機質な慣習へと変わってしまうということを意味しています。三年間積み重ねてきた希少性を壊すことができるのか、と一瞬思ったこともあったのです。
でも、やっぱりアラームを設定していました。
それほどまでに、一日一日が特別だったのです。
そんなのなんかどうでもいいと思えるほど、一日一日が特別だったのです。

今日の朝、削除していなければならなかったアラームが、その存在の違法性を知ってか知らずか、わざとなのかあえてなのか、遠慮なく部屋へ流れてきました。
消しておくのを忘れていた、鳴ってはならないアラーム。すぐに止めればよかったということは分かっています。けれど、そんな元気もなく、そして、少しだけ、最後に聴いていたいんだ、ごめんね、と、誰に対して気を使い、誰に対して謝って、そして誰に対して嘘を付いているのか、そんなわけのわからない気持ちがどろどろと重くのしかかり、体を布団の中に縛り付けていたので、ただただその状況を眺めていたのでした。部屋の中へ流れてくる音は、止める者がいないため、その勢いは容赦ありません。やがて部屋に充ち満ちて、行き場のなくなった音は、いよいよ自分の心の中にまでなだれ込んできました。小さな小さな自分の心です。すぐに自分の心は瀲灩たる有様、そしてそこから零れ落ちた水滴が、様々な回路をとてつもないスピードで、いや、やはりゆっくりじっくりと経由して、最終的には枕にまで流れ着きました。

そうやって始まった一日は、最早一日の体を表さず、だれに何も言われることなく、言われる必要もなく、ひっそりと沈んでいきました。
次またこのアラームを笑顔で聴けるのはいつであろうか。
笑顔、というより、あの時の気持ち。数時間後を想像し、嬉しい気持ち、楽しみな気持ち、どきどき、わくわくで胸が一杯になり、少しはにかみたいような、あったかい気持ちで、あったかい布団に体をこすりつけるあのときの気持ち。
あの気持ちになれる時は、いつなのだろうか。
というより、アラームをかけられる日はいつなのだろうか。
数週間後かもしれないし、数ヶ月後かもしれないし、数年後かもしれない。
永遠こないかもしれない。
意味の無いものに意味を持たせる作業ほどしんどいものはない。でもそれは人それぞれ。全てに言えることでもあるし、全てに言えないことでもある。
でも、まあ、もうそれでいいかなって。聴かなくていいかなって。
こういうところなんだろうな。女々しすぎです。

女々しいといえば、なんというか最近色々考えていたのですが、女々しいと男らしいは、やっぱり紙一重というか、同じなんじゃないですか。男らしくなろうと思えば思うほど、同時に女々しくもなっていくのだと思います。
女々しい人も、男らしい人も、ただただ、誠実なんだと思います。

自分自分自分。
全て自分で完結できる人間になりたいです。










おわり
by hayashihiromu | 2013-05-19 22:03 | 普通

一人お祭りはじめ

今日は東大の五月祭へ足を運びました。
五月祭の中で開催されたある大会を見に行ったのです。自分が大学で所属しているサークルというか部というか、その先輩の応援のために行ったのです。結果は見事準優勝。さすがです。
久しぶりに外にちゃんと出た。暑いねー。

五月「祭」ということで、お祭りです。
これが今年の「お祭りはじめ」でした。
いつもより一足早い。

これまでは、6月の第一週目の土日が自分のお祭りはじめでした。
自分の家のほんとすぐ近所、歩いて15秒くらいの所で、いつもその時期に開催されるんです。
自分の誕生日も6月の第一週なもんで、小学生の時とか、たまに誕生日とお祭りがかぶったりなんかして、一日中、本当、ずっと幸せな気持ちだったのを今でも思い出します。
誕生日会なんかもやったりしてね。友達と一緒にお祭り行って。
みるくせんべいたくさん食べて。エアガンとか当たったりして。

中学に入ってからは、もっぱら一人でこのお祭りへ行くようになりました。
地元のサッカーチームをフェードアウトしてから、地元の友達とは連絡とりずらくなったってことと、もう誕生日会とか開かなくなった、という二点が理由です。学校の友達は皆遠くに住んでいるので、基本的に家に行ったり呼んだりってのは無いんですよ。
だからもっぱら一人でお祭りへ行くようになりました。

今年も1人で頑張って楽しんでみようと思います。
でもね、やっぱり、なんだか少し物悲しい思いというか。
一人でもお祭りは満喫できるけど、二人の方が楽しいんじゃないかなって、ちょっと思ってしまう時も、あって。
ただでさえ味の濃いものを食べているのに、思ったこと、感じたことを自分で飲み込み続けていたら、胃が荒れちゃうから。
人と喋りながら、ってのも経験してみたかった。
今年は誰かと行きたいな。
そうだ、バンドで行きませんか?
あー、うーん、でもやっぱいいや。なんかイメージが湧かない。
でもたむたむとかMy御神輿持ってそうだよね。
一人で良く知らないお祭りへ行っては、My御神輿担いで勝手に走り回ることを夏の趣味にしてそうだよね。
今年も頑張って。期待してるよ。

はてさて。

まあ、とりあえず自分のお祭り期間は始まってしまったのでね。
例年より少し長いお祭り期間は、自分に何を見せてくれるのでしょうか。

あ、そうだ、五月祭、タピオカ売り過ぎでしょ。まじで。
いや、なんなの?タピオカ屋さんだらけ。何その東大生のチョイス。意味分かんない。安田講堂向かう道とかもうタピオカしかなかったんだけど。あとチェロス。おかしくない?まじでなんとかしたほうがいいと思いました。


とりあえずみるくせんべいをまだ食べていない。
そういう意味では、まだお祭りは始まっていないのです。
タピオカでは始まりません。
結局例年通りです。何も変わらない毎日を、何も変わらない自分が過ごしています。







皆さんに、幸せで楽しい素敵なお祭り期間が訪れることを願って。



おわり
by hayashihiromu | 2013-05-18 21:19 | 普通

一日

一日は際限なく長く感じる。
一週間はとても短く感じる。
でも先週の今日を振り返ってみたら、とても昔のことのようで。


金曜日は1〜5限まで全て埋まってる日。
でも今日は4限が休講だった。
中途半端な時間が空いた。
だから大学の中庭の木の下のベンチに座ってた。
何もすることがないし、する気もなかった。
ぼーっとしていた。
知らない間に、視界の中にカラスがいた。
視界の右端に、一羽のカラスがいた。
ずっと見ていた。
でも、絶対にカラスを視界の中心に据えなかった。
見ているって、悟られたくなかった。
誰にも悟られたくなかった。

カラスは全然動かなかった。
自分も動かなかった。
5分間、このカラスが、自分の固定した視界から消えなかったら、一つ願いが叶うんですよ。
自分は今、そんな願を掛けているんですよ。
こっそり神様に教えてあげた。
ずっと視界を固定していた。
ずっとカラスはそこにいて。
身動きせずにそこにいて。
でもあまりにも動かないもんだから、なんでかなって、不思議に思った。
もっとしっかり見てみたいって。
だから、メガネを取り出した。
絶対に、この、世界にただ一つだけの区切りを壊さないようにね。
分かってるよーって。
細心の注意を払って、そっとメガネをかけてみた。

そこに、カラスはいなかった。
何もなかった。
ただの木と木の影。
自分は目が悪いから、よくあることだけどさ。
願を掛けることも許してもらえないんだなって。
それがとても悲しかった。

一つ疑問に思った。
メガネを掛けないまま、現実を知らないまま、5分間が過ぎたら。
現実をしらないまま、今日一日が終わったら。
何もしらないまま、一生が終わったら。
自分の願いは叶っていたのかな。
自分の世界の本当は普遍的な本当ではないから。
どっちの本当が本当なんだろう。
きっとあそこにいる人は犬に見えていただろうし。
あの人はヒバゴンだと思っていただろうし。
あっちの人は猫に見えていただろうし。

こういう当たり前のことを考えていると、意外と暇って潰せるんですよ。


そんな感じで、中庭の木の下のベンチに座っていたら。
気付いたら5限はとっくに始まっていたから。
あーあって。






そんな一日。












おわり
by hayashihiromu | 2013-05-17 20:00 | 普通

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