ヘンリーヘンリーズのギター担当。


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片山杜秀教授との公開討論会『国の死に方〜戦前日本と現在〜』②天皇制の変遷/(山本議員手紙問題)


天皇制の現在の在り方を考える上で、少し山本太郎議員の行動の是非について触れたいと思います。「天皇」を考える時に分かりやすいと思うので。

あ、この山本議員手紙問題の部分は討論会では一切触れられなかったことです。自分が勝手に書いているだけで、片山教授は関係無いです。



少し前のことではありますが、山本議員が園遊会において天皇陛下に手紙を渡したことに対して、「皇室の政治利用」だとかなり批判がありましたよね。ではそもそも「皇室の政治利用」とは何が問題なんでしょうか。

この問題は、請願法云々、失礼だ云々ではなく、憲法的に問題なんです。「天皇」の在り方を考える上で、問題なんです。

日本国憲法は、天皇について、4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する機能を有しない」と規定しています。これは、天皇が政治に参加してはいけない、ということです。政治に関わってはいけない、ということです。

では、なぜ政治に関わってはいけないのでしょうか。それは、天皇とは「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると憲法1条で規定されているからです。天皇は日本国民統合の象徴なのです。日本国民だからといって、皆意見が一致している訳ではありません。利害、意見の激しい対立があります。しかし、そのような中でも、天皇に思いを寄せることにおいてだけは、統合が果たせる。その気持ちだけは、一致できる。天皇とはそのような存在でなければなりません。

そのため、天皇は無色透明で無ければならないのです。国民の意見の対立に参加してはならないのです。政争に参加すると、色がついてしまう。そうなると、天皇の支持した「色」と対立する意見を持つ国民は、天皇をどう思うでしょうか。無理ですよね。統合なんてできないし、象徴には成り得ません。だから、絶対に政治に参加してはならないのです。

これは、天皇自らが政治に参加してはならない、ということと同時に、天皇を政治に巻き込んではならない、ということも意味しています。当然ですよね。無色透明でなければならない天皇に色をつけようとしたらダメでしょう。これこそ、「政治利用」が禁止される本義なのです。政治パフォーマンスに利用することがダメ、というのではなく、無色透明であるために、政治の色をつけてはいけない、ということなんですよね。

そして、これらは憲法によって規定されていることです。そのため、一般人ならいざ知らず、国会議員である山本氏は守らなければなりません。憲法とは権力者を縛る規範であり、憲法99条によって、国会議員は憲法を尊重しなければならないと規定されています。政争の真っ只中にある原発問題に天皇を巻き込んだことは、憲法の意図する天皇の在り方に抵触するものです。そのため、山本議員は、やはり重い処罰を受ける必要があると思います。

また、山本議員だけでなく、自民党がオリンピック招致のために皇室を用いたことも問題です。利害の対立がある事柄に皇室を巻き込んだ。皇室に色をつけた。この意味で、もっと批判されなければならないと思います。


少し話しはズレますが、この山本議員の問題で、少し左派に幻滅しました。あー、やっぱりか、と。というのは、明らかにダメなことをした山本議員を擁護する人が多かったからです。そしてその理由が、自民党もオリンピックの件で政治利用したじゃないか、でも何もなっていない、だからいいんだ、のようなものだったからです。

周りの人が泥棒を働いたからといって、自らも泥棒してもいいのでしょうか。というより、右派がさきの大戦における日本の戦争を「自衛」だと主張する際に、左派は、周りの人が泥棒を働いたからといって、自らも泥棒してもいいわけないだろ!と責め立てるじゃないですか。もっともな意見であると思いますよ。でも、自分達がその泥棒の立場に立ったら、自らの使っていた論理をすぐに捨て、自らを擁護する。がっかりですね。所詮その程度だったんだなーと。確信的だったとしても業腹ですけれども、実情は、自分達がこのようなブーメランを喰らっていることにも気付かず、何も考えていないで発言しているだけというもっと酷い状況のような気がして、哀しいですね。左派こそが、山本議員に、ルール違反はルール違反なんだから、と、処罰を促すべきだと思いますがね。


長い長い前置きの後、②天皇制の変遷について触れたいと思います。
学生からの質問は、ざっくり言えば、明治憲法下での天皇と、現在の憲法下での天皇は、明らかに規定のされ方が変わっている。このような中で、現在日本においては、天皇、天皇制はどのように成されるべきか、というものです。実際は、右派から不敬だ!と言われるような過激な言葉も含まれていたり、もっとしっかりとした前提の下でしたが、もう前置きが長かったのでカットさせて頂きます。

この回答としては、これまたざっくり言うと、戦前と現在で天皇の規定は変わっているものの、天皇の実情は変わっていないため、このまま続けるべきだ、というものでした。その理由は、日本人に特出された権力に対する考え方なのですが、これは未完のファシズムを読んで下さい。ここで軽く書くよりはしっかりまとまった本を読んでもらう方がいいですね。まあ、少し言うと、歴史的に見ても、日本人は強い権力を嫌うのです。だから、「天皇」という緩和剤が必要なのです。

ここまで上記の問答を削って書いたのは、前提が長過ぎたということもありますが、本に書かれていないことで、自分としては目から鱗といいますか、非常に面白い話しがサブウェイであったので、こっちを書きたいな、と思ったからです。それは、現在の日本において、今上天皇とは4代目の天皇だと考えるべきだ、というものです。

神武天皇から遡れば、天皇の歴史とは2600年以上あるとされています。しかし、日本が近代国家になってからの天皇、今の様な形の天皇は、まだ4人しかおられないのです。ここに注目すべきだと思います。なので、天皇の正当性を持たせるための、その方法論がまだ無いのです。だからこそ、今上天皇皇后両陛下のご苦労は凄まじいものであり、その功績も多大なものであると思います。普通の人ではやはりできないですよ。

しかし、まだたったの4代なのです。これからどうなるか分からない。このまま正当性を持たせられるのかも分からない。だからこそ、ひたすら日本を回られる。震災があったらそこに訪問される。公務をされながら、国事にも参加されながら、お祈りを捧げながらです。宮内庁が焦っているのも、ここだと推測されます。お体の具合が悪くなり、今までのように動くことができなくなれば、正当性は担保できなくなるのではないか。皇室は、目に見え難い、また、平時では気付き難い、そのため非常に難しい事柄であるものの、日本の根幹であるということは事実です。心配です。


というような感じでしたかねー。
もう一つ、天皇制から派生して、丸山眞男の「無責任の体系」に関しても話しましたが、ちょっと長いので、以上!













by hayashihiromu | 2013-11-27 00:43 | 普通

片山杜秀教授との公開討論会『国の死に方〜戦前日本と現在〜』①安倍政権の意図


先週の日曜日に、三田祭で片山杜秀教授と公開討論会を開催させて頂きました。先輩方にお膳立てして頂き、1年生が3人登壇し、教授にそれぞれ質問をぶつけていくというものです。大変勉強になりましたし、本当に面白かったです。もう楽しくて楽しくて、1時間半、ずっとにやにやが止まりませんでした。片山教授と先輩方に感謝です。来年、自分も今の先輩方のようになりたいですね。


今回のテーマは『国の死に方〜戦前日本と現在〜』というものでした。死へと向かっていった戦前の日本と現在の日本を比較し、改めて今の日本を考えよう、というものです。ではそもそもなぜ戦前と現在を比較するのか。これは、前回の記事の後半で少し述べましたが、歴史の流れが非常に酷似しているからです。
簡単に整理しますと‥。

戦前
大正バブル崩壊→長期デフレ突入→関東大震災→世界大恐慌→昭和三陸地震。
政治面では、23年間で16の内閣が誕生。最後に、東条英機の長期政権。

現在
1993年バブル崩壊→長期デフレ突入→阪神淡路大震災→リーマンショック→東日本大震災。
政治面では、22年間で15人の首相が誕生。そして、安倍晋三の長期政権が始まろうとしています。

さらに、両方の流れの中で見逃せないポイントは、グローバル化です。
第一次世界大戦前後は、資本の移動がかなり活発であり、今では第一次グローバル時代と言われているほど。今の時代は、言わずもがなですね。

この流れの中、日本は死へと向かっていった訳です。その流れに沿う様に、現在の日本も進んでいます。地震は偶然だとしても、このような奇妙な一致は、やはり背筋が寒くなる思いを抱きますよね。



このような前提を踏まえた上で、現在の日本は「死」(近代国家の統治の崩壊、国民国家の崩壊)へと向かって行っているのであろうか、ということを3つのトピックからお話しを伺いました。
①安倍政権の意図
②現在の天皇制の在り方
③若者の教育



まず、①「安倍政権の意図」についてです。
現在、安倍内閣は高支持率を維持していますが、何かと批判が多いことも確かです。まあ、批判が多いことは安倍政権に特出したものではないですが、なんというでしょう、国の形を変える、という意味での批判が多い様な気がします。右傾化だとか、新自由主義的だとかですね。実際に、憲法改正、増税、TPP、大規模な規制緩和等の、国が変わるような政策を行おうとしていますからね。

さらに不思議な点として、施行している、しようとしている政策の相反性です。
アベノミクス第三の矢の成長戦略において、規制緩和や自由貿易の推進という、新自由主義的な政策が並んでいます。小さな政府を目指し、国民には自助を求めているのです。しかし一方、国内ではナショナリズムを煽るようなことをしています。主権回復の日然り、反動的な憲法改正然り、歴史認識然りです。国民感情の統制をしながら、行っている政策は「自助」であり、国は面倒みないよーと言っている。これには、どのような意図があるのか。


一つの仮説として、「安倍政権は日本という国民国家をギリギリのラインで残そうとしている」、と考えれば、かなり辻褄が合います。


少し話しはズレますが、自分は、保守的な人間です。日本が好きです。変わらないでほしい。伝統と文化を大切に、日本人の人柄を大切に、この国を未来を紡いでいきたいと思っています。だからこそ、グローバリゼーションが嫌いです。新自由主義が嫌いです。

しかし、心では、このような感懐を抱いているものの、頭のどこかでは、これと逆のことを考えている自分もいます。
日本は、今すぐにグローバル化の道に転換しなければならない。規制緩和、改革を断行せねばならない、と。

なぜなら、グローバル化とはfactである、とどこかで思っているからです。好き嫌いではない、事実なのだと。
この言葉は、竹中平蔵教授がよく仰っているものです。竹中教授といえば、何かと批判もある方です。その内容は、「新自由主義者」だとか「アメリカのあれだ!」とか、「ばいこくだ!」とかだと思います。しかし、決してそうではない。竹中教授は、「グローバル化はfactである」という前提の下、そのような世界の中で、日本という国が上位に立てるように、と考えている方です。

グローバル化とは、フラット化です。フラット化とは、競争の舞台が世界になり、競争の相手が世界中の人間になるということです。インターネットの発達により、世界にあった壁はなくなりました。発展途上国の賃金は上がり、先進国の賃金は下がる。平等になっていく社会。それは、先進国の生活水準が下がるということを意味しています。

このように、世界はフラット化していく。しかしその一方、スパイキーな世界にもなっていくと、T・フリードマンは述べています。世界全体はフラット化するものの、一部の都市では、とてもスパイキーなものになる。なぜなら、世界中から人が集まって来るからだ、と。ニューヨーク、ロンドン、東京、パリ、ロサンゼルス、香港、etc‥。

だから、日本はもっと都市に力を入れなければならない。人が集まる都市を。そうすることによって、国を発展させるしか、スパイキーな都市を作るしか、国の発展は見込めないのではないか。

もしこれが竹中教授の言う様に紛れもない事実だったとしたなら、日本は、一刻も早く、この世界に適応できるように行動しなければ、国全体が沈没してしまします。しかし、この世界に適応できるような国とは、最早国民国家ではないのかもしれません。近代国家は瓦解するのかもしれません。

世界の状況を見てみてもこのようなもの。さらに加えて、日本国内の現状を見てみても、もう、国が全ての国民を支えられるようなシステムにありません。社会保障は年に一兆円増えて行きます。政府の借金は(国の借金ではないですよ)1000兆円を超えています。10%に増税したとしても、財源を補うだけの力は無い。それなのに、生活保護費は増える。しかし国は、もうお金を使えない。全ての国民を支えることができない。さらに、世界はフラット化している。これまでのような成長は見込めない。

だから、自助を求める。もう無理だから、切り捨てる。しかし、そうなった時、国民国家は崩壊し、近代国家の統治システムは崩れます。国民から税金を徴収し、国民にサーヴィスを提供する。これができなくなる。では国境を失くす?国境を低くしたEUを見て下さいよ。国は無ければならない。しかし、国家は国民の面倒を見ることができない。ではどうするか。


ここで、現在の安倍政権の行動なのだと思います。感情だけでも、日本国民を統合する。国民国家を保つために、ギリギリ、国民国家を保つために、日本国民の心を、改めて日本という国に集める。


フラット化する世界に適応するために、フラット化しても日本国民が頑張れるように、フラット化しても日本が存続できるように、日本を改造する。しかしそれは国家の求心力を低下させ、国の死へと向かうものでもある。だから、イメージだけでも、感情だけでも、日本国民を統合する。国を保つために、心だけでも、日本を統合し、国民国家をギリギリのラインで成立させる。日本を渦巻く、国が成立していかなくなるような国内情勢、国外情勢の中で、リアリズムと理想のビジョンの下、安倍政権は動いているのではないでしょうか。




①「安倍政権の意図」に関しては、このような仮説の結論でしたね。

安倍政権の行動のポイントは、「いかにお金を使わないか」ということにあると見ていいでしょう。だからこそ、片山教授は、徴兵制も否定しています。そんなお金どこにも無い、と。戦争するお金もどこにも無い。お金が無いんです。だから、政府の支出を減らそうとしている。というより、借金を減らさなければならない訳ですから。お金を沢山使わなければならない施策を、安倍政権は行わないだろう、ということです。


いやー。うん。いやー‥。
辛い世界になりそうですよね。10年後、どうなっていることやら。
しかし、安倍政権に関するこのような見方は、あまりなされていないような気がするので、面白かったです。良い議論をさせて頂いたと思います。あ、因に、自分がこのトピックを担当しました。

「グローバル化はfact」
鍵はこれですよね。今の現状を見てみると、正しいように思えます。しかし、グローバル化が原因で、金融危機が世界に波及したのは事実。グローバル市場における穀物価格の不安定さが、アラブの春の原因になったのは事実。そして、第一次グローバル化の行き着く果ては、世界大戦であったという事実。

グローバル化はfactなのかもしれない。しかし、それは地震のような自然現象ではない。抑えることはできる。実際に、第二次世界大戦後の世界は抑えていた。しかし、その世界でも綻びが出たため、またグローバルな世界へ‥。とりあえず、自分がどうにかできる訳ではないので、最悪の世界を想定し、自らの能力を上げていくだけですね。


他のトピックは、また別日に触れたいと思います。

ではでは。






つづーく















by hayashihiromu | 2013-11-26 01:33 | 普通

お久しぶりです


いやいや、久しぶりに日記を書いています。
好きな言葉は尻切れとんぼです。嘘です。最近特別忙しかった訳ではないのですが、生活に中々気分が乗らないもので。今は絶賛風邪を引いている最中であります。季節の変わり目を無傷で乗り越えられたことがありません。今年は比較的あったかい格好しているのにです。

もう今年も終わりますね。早いものです。本当に早いものです。なんだか、今年はまだ4ヶ月くらいしか過ごしていない気がします。特に、5月以降は完全にぽっかり空白が空いたみたいになっていまして、この空白感の肌寒さに耐えられず、風邪を引いたのかもしれませんね。そういえばミャンマーに行きましたけれども、それも本当に行ったのかな、というか。結局何も変わりませんでしたからね、日常と。あまり人とは会話せず、1人でぷらぷらと過ごす。高校では、あまりに人と喋らなかったもので、これはもう何日間人と喋らないでいられるか、というものに挑戦した結果、確か2週間くらい人と会話しないで過ごしたような気がします。ミャンマーも、別に一緒ですね。っていうか本当に行ったのかな?自分は頭が悪いので、すぐに忘れてしまいます。

体重増加計画は、あえなく頓挫。でも、成果はそこそこあったのです。10月中旬くらいから11月初旬まで、しっかりカロリー計算をしながらご飯を食べ、結果的に49.5kgから53.8まで増加しました。けれども、この増加計画で浪費した費用と、53、という数字が、なんだかしっくりこなかったため、また、なんだか疲れてしまったため、終了。ここ一週間は、基本的に豆乳、野菜1日これ1本、どら焼きで日中を過ごし、夜は豆腐とあん肝、という生活。逆リバウンドを果たし、もう目も当てられません。

でも今日は生パスタを食べました。けれども、タムタムさんにやられました。今日は一緒に生パスタを食べようと約束してたのに。もう。でもいいもんね。
誰かとご飯を食べたいですね。

もう今年も終わりますね。早いものです。実はまだ、去年の受験の時の気持ちを引きずっています。まだ実は受験生なんじゃないだろうか、と。それくらい、今年に実が無かったのでしょうか。実が無いどころか、色々なものを無駄にして、逃してきてしまって、こんなはずじゃなかったのにな、と、軽く現実逃避した結果、潜在意識が勝手に反動しているのでしょうか。たまに勉強しなきゃ勉強しなきゃと焦って目を覚まします。受からなかったらどうしよう落ちたらどうしようと吐きそうになりながら目を覚まします。誰か、背中を撫でてくれてもいいんだよ!

今年も終わりますね。早いものです。早く終わってほしいです。そして今年を全て忘れてしまいたいです。


今週の週末、大学の文化祭があります。三田祭と呼ばれています。自分は弁論部というサークルに入っているのですが、24日の朝11時から、教授をお呼びして公開討論会を開きます。教授は、この日記でも何度も触れさせて頂いた片山杜秀さんです。弁論部の幹事長の方と、自分も登壇させて頂きます。テーマは、国の死に方。戦前と現在を比較し、政治思想の観点などから分析していきます。

戦前と現在って、すごい似ているんですよ。怖いくらいに。

大正バブル崩壊、長期デフレ、関東大震災、短命政権、世界大恐慌。
バブル崩壊、長期デフレ、東日本大震災、短命政権、世界大恐慌一歩寸前。

現在は核があります。先進国同士のガチンコの戦争は起こりえません。なので、WWⅢは起こらないでしょう。
経済的にも自由貿易が進んでおり、ブロック経済なんて起こりえません。あれ、TPP‥。いやいや、そんなのしーらない。

そして、オリンピック。2020年、どのような意味合いのオリンピックになるのでしょうか。
7年後って想像できないですね。7年前ってまだ自分小学生ですからね。はー。

今年も終わりますね。早いものです。
キルケゴールを読んだ後は、しっかりとハイデガーを読もうと思っていたのですが、今はニーチェを読んでいます。後はオルテガの『大衆の反逆』ですね。というのも、ハローウィンの夜の日、渋谷のセンター街へ足を踏み入れてしまいまして。その光景が、なんだかもう、どうしたらいいか分からないといいますか。

日本でニーチェ、というと、一時期流行った『ニーチェの言葉』という本が思い起こされるかもしれません。ポジティブ、というか、自己啓発、というか。でも、実は、この自己啓発的な『ニーチェの言葉』という本と、それを読む人達のことを、ニーチェは心の底から軽蔑していたのです。多分あの世でブチ切れてるんじゃないでしょうかね。

「神は死んだ」という言葉の通り、ニーチェは、キリスト教的自己啓発をとても軽蔑していました。そういう人種、大衆を、畜群といって罵っていたのです。『ニーチェの言葉』で自己啓発する人達のことも、同じく畜群と罵っているでしょう。家畜の群れ。酷い言葉です。

ハローウィンの夜の日、その圧倒的な大衆を前にして、なんだかホームシックになったといいますか、どこかに帰りたい、と思ってしまいました。だから、ニーチェを読んでみました。オルテガを読んでみました。

超人になりたい。でもなれない。だから大衆になる。砂みたいなものです。高校の研究旅行の助手として、鳥取砂丘へ行きました。助手にも生徒と同様にエッセイの宿題が出ました。自分は、鳥取砂丘についてと、出雲大社について書きました。縁を結ぶためには、その関係を措定する何かが無ければいけません。出雲大社のような場所では、きっとそれが作業になっていることでしょう。そうなると、そこはもう工業地帯といっても過言でもありません。誰かと誰かの縁が措定される毎に、有害物質が撒き散らされて、人の体を蝕みます。これが、人の悲劇の由縁なのでしょう。しかし、しかしです。出雲大社の周りには、大きな大きな木がたくさん植わっているのです。神の地の木ですから、きっとその有害物質を全て吸い取り、綺麗な酸素にして世の中に撒き散らしていることでしょう。だから、人は呼吸をできているのだと思います。

せっかくなので、鳥取砂丘のエッセイを転載してみたいと思います。あれ、いいのかな。いいよね。明日くらいに、キルケゴールの続きを書きましょう。ではでは。今年ももう終わりますね。早いものです。体調には、気をつけて。




おわり



創出の原因が自然であったにせよ、人であったにせよ、それが砂漠であることには変わりない。結局、不安定で、地盤が無く、その上には何も生まれない。無機質で、しかし動的であるが故、世界を、国を、人を乾かす。  

砂一粒一粒に記憶があるかどうか、そこに意味は無く、問題は、砂と砂との関係、さらにそこに自然と人との関係を加えた全体であり、本来的な意味での意識を持たない、一種の形状記憶である。

しかし、砂の一粒一粒はそれを自覚せず、例えば、あろう事か全体における砂廉や砂柱を自らの個性とする。慣習で自らを彩ることで加速された無知は、自覚の機会を喪失させ、やがてこの国に一つの砂丘を作った。

良識ある人は、この砂丘と対峙した時、それと対抗するために貴族であろうとする。しかし、そのためにいくら砂を握り潰そうとも、丘の上に立ってみようとも、痛みにさえ無知で動的な体積に抗うことは出来ない。それどころか、服、靴、口、髪、至る所から侵入してくる砂の乾きに安心し、やがて砂そのものになる。そして、この世の全ての責任を、残存する数少ない人へと転換させ、襲いかかる。やがて積み重なった砂丘は、天にまで挑む。

砂の反逆から逃れられないこの世界で、人は、一体どうすればよいのか。超人と砂の間で、一生をさ迷い続けることは可能なのか。もし出来るとするのなら、その時自分は、きっと駱駝に乗っていることであろう。




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by hayashihiromu | 2013-11-19 23:39 | 普通

『死に至る病』-セーレン・キルケゴール- ①死に至る病とは絶望である/「自己」について


最近、哲学の講義の課題で哲学書を渉猟しているため、せっかくなのでまとめたいなと。この前読んだ本が、セーレン・キルケゴールの『死に至る病』です。「死に至る病」という言葉は聞いたことのある人が多いのではないでしょうか。アニメ、漫画、小説の題名にたまに使われていますよね。エヴァンゲリオン!

あ、あと、訳は桝田啓三郎氏がいいです。ちくま学芸文庫の。訳注が素晴らしい。この訳注が無かった絶対に読めなかったです。



さてさて、この1849年に出版された『死に至る病』は、「死に至る病」を「絶望」であるとし、その「絶望」に関して緻密に書かれたものであります。第一編では、絶望とは死に至る病である、絶望とはどのようなものか、絶望している人の状態はどのようなものか、ということが書かれており、第二編では、絶望とは罪である、ということが書かれています。

ではでは、入っていきます。
そもそも、絶望とは何なのでしょうか。
端的に言えば、自らの否定したい非本来的な自己から抜け出せず、自分自身を無力に自己食尽するもの、だと思います。たぶん。

では、非本来的な自己とは何なのでしょうか。まずは、本書で書かれている「自己」というものについて考えて行きたいと思います。

キルケゴールは、冒頭で「人間とは精神である」と述べています。では、精神とは何なのか。すると、「精神とは自己である」と言います。では、自己とは何なのか。自己とは、「ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係」あるいは、「その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのこと」であると書かれています。「自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということ」なのだそうです。

1ページ目からこれであり、また、ここが非常に重要なため、もうわっけわからん感じなってしまうと思うのですが、一つ一つ考えていきましょう。

まずは、「精神」についてです。本書の訳注で桝田啓三郎氏は、こう述べています。人間は心霊的なものと身体的なものとの綜合であり、それを統一する第三者が「精神」である、と。心や肉体とは違い、精神とは、神の規定した人間の本質であり、人間の魂の奥底で神と交わる場所であり、永遠者の意識なのです。人間のもっているものより、いっそう高い意識生命のことが、「精神」であります。



少しだけ先行した話しをしますが、絶望とはこの「精神」が煩う病なのです。つまり、絶望とは外面的なものではなく、内面的なものであるということであります。たしかに、絶望に起因するものとは、例えば、クビになった、破産した、夢が破れた、傷つけたくない人を傷つけた、失恋した、大切なものを失った、などの、外的なものであります。しかし、その外的なものに絶望する、「何事か」について絶望するのは刹那的なものであり、結局は、このような状態にある今の自己自身に対する否定へとなります。だからこそ、永遠に続く苦しみなのです。

絶望とは外的なものではない。だからこそ、キルケゴールは死に至る病は絶望である、と述べていますが、この場合の死とは、「死を死ぬ」、「永遠に死ぬ」、「死にながらしかも死なない」ということであり、決して肉体的に死ぬことではないのです。生への希望もなく、しかし、死という最後の希望さえも剥奪され、死よりも苦しい苦悩を持ちながら、死にながら生き続ける。この状態が絶望なのです。



話しを戻します。精神についてある程度考えたところで、「自己」についていきたいと思います。
本書において、自己とは「その関係がそれ自身に関係するということ」とあります。これでは何が何だかです。
そもそも、人間とは綜合(「総合」の哲学的な言い方だと思います)であります。心霊的なものと身体的なもの、無限と有限、これらの綜合であります。この時、例えば無限と有限、という、2つの関係項の関係がありますよね。そして、この関係は、固定的なものではないはずです。つまり、均衡と不均衡があるということです。無限に比重が偏ったり、有限に比重が偏ったりして、不均衡の状態になる。しかし、不均衡の状態があるということは均衡状態もあるということであり、すなわち、2つの関係があるということであります。関係とは、固定的ではなく動的なものなのです。

この均衡状態の関係を、ハイデガー的に「本来的な関係」、不均衡の状態を「非本来的な関係」と呼ぶことにします。

繰り返しますが、本書では、自己とは「その関係がそれ自身に関係するということ」であるとしています。つまり、「その関係」とは、「本来的な関係」若しくは「非本来的な関係」のことです。となると、
「本来的な関係」若しくは「非本来的な関係」が、「それ自身」=「本来的な関係」若しくは「非本来的な関係」に「関係する」ということです。

この最後の「関係する」とは、態度を取る、ということであり、簡単に言えば意識をする、ということです。となると、「その関係がそれ自身に関係するということ」とは、「本来的な関係」が「本来的な関係」を意識すること、若しくは、「非本来的な関係」が「非本来的な関係」を意識すること、であります。これが、「自己」なのです。

「その関係がそれ自身に関係に関係する」、すなわち、或る関係項の関係がその関係自身の状態を意識すること、これこそが自己であるのです。そして、この綜合を措定する第三者が精神であるのです。

ここで、ちょっと複雑になりますが、この第三者の精神は、神との関係にあります。どういうことかというと、或る関係がそれ自身の関係に関係する時にも、その関係を措定する第三者が必要であり、それが神なのです。キルケゴールの意見ですが。

以上が、「自己」の説明であります。一気に書いから指が‥。不備ないかな‥。ちょっともう疲れたので、一旦切ります。キルケゴールの「自己」がどんなものか、大体分かって頂けたら幸いです‥。あってる保障ないけど‥。














つづく
by hayashihiromu | 2013-11-03 19:08 | 普通

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