ヘンリーヘンリーズのギター担当。


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三田祭②〜女子大生に、出兵間際に告白されて〜





イケメンに壁ドンされてドキドキした後、三田祭で最早名物化しているようにも思える、200円払えば女子大生に告白される、という企画に行ってみました。500円払うと3人から告白されるということなのですが、まあ自分はそんなふしだらな人間ではないので200円を受付で払いました。すると、自分が呼んで欲しい名前、女の子の年齢設定、希望するシチュエーションを書く紙を渡される訳です。

シチュエーションは何でも好きなものを自由に設定していい、という素晴らしい企画。例えば「放課後」だとかですよね。色々ありますよ。自分はというと、「戦場」か「出兵」で迷ったのですが、ここはやはり誰しもが一度は言われてみたい「生きて…生きて帰ってきてね…!」という言葉が欲しくて「出兵」と書いちゃいました。来年は「戦場」かな。

どうやら演劇サークルの企画らしく、マジな演技をしてくる、という情報だったので、ここで自分が恥ずかしがったり、妙な照れを入れてしまっては相手にも失礼ですし、成立しないですし、そもそも自分はそんなしょうもない人間にはなりたくないので、ここは本意気で臨もうと思い、集中して待っていました。


自分の番がくると、カーテンで仕切られた個室に案内されます。そこでドキドキしながら待っていると、突然、「はやしくん!」と女の子が飛び込んできました。

「本当に、行くんだね…」

おお、いきなりですね、と若干面食らいつつも、今のこの状況をもう一度整理。

自分と相手の女の子に与えられている情報は、自分が「林」という名字で、年齢設定は同い年で、そして状況は出兵の別れ際だ、ということだけです。そして、ここからはただただこのカーテンで仕切られた空間の中で、誰に見せる訳でもなく、2人だけで1つの場面をアドリブで完成させなければならないということです。これはすごいことですよ。

ことの重大さに気づき、このままではやばい、照れてしまう!と思い、早急に細かい設定を脳内で作成しました。


時は1944年冬。とうとう徴兵される日が来ました。メディアが発信する情報には、玉砕の文字が日々踊っています。最早劣勢なのは疑い用がありません。だけれども、自分は行くのです。

結局一睡も出来なかった自分は、なんとなく、もう一度自分の町を見てみたくなり、早朝に外に出て歩いていました。多分もう、この町を見ることもない。御国のために命を捧げる。本望じゃないか。親兄弟も喜んでくれるさ。先に靖国へ行った学友達のもとへ行けるんだ。何も悲しいことはない。何も寂しいことはない。天皇陛下のために、御国のために、国民のために、そして、なにより、あの子が生きていけるこの国の未来のために。

気付けば、あの子の家の前に立っていました。まだ薄暗い早朝です。自分を出迎えてくれたのは、あの子の家の軒先で飼われている犬の寝顔だけでした。最後に、お別れの言葉を言いたかった。いや、言わなくていいんだ。自分は日本男児。靖国で、いつまでも見守っているのだから、それでいいんだ。

まだ暗い窓に向かって、静かに敬礼。ゆっくり背を向け、そのままその場を離れようとした、そのとき、

「はやしくん!」

「本当に、行くんだね…」

まさか。こんな奇跡などあるものか。いや、ちがう、きっとあの子も、起きていたのだろう。家の前の人影に気付いたのだろう。これは神さまがくれた時間だ。

ゆっくり振り返ると、そこには常に思いを寄せていた人、その人がいました。

「生まれたときから、ずっと、一緒だったよね…。小さい頃から、隣の家でさ、いつも一緒に遊んで、勉強して…」

あ、なるほど、これは幼馴染の設定でいく感じなのね。自分としては結構町を徘徊して辿り着いた感じだったんだけど、まあ、いいや、と、早急に脳内で設定を組み替え。

するとなんだか余計に悲しくなり、目を細め、俯いてしまう。

「なんだか、はやしくんが側にいない生活なんて、考えられないや…」

自分は何も言えずに、ただただ俯いていました。だけれども、言わなければならない。これは、自分から言わなければならいのだ。神様がくれた時間だ。生きて帰ってきたら…。もし、生きて帰ってきたら………。それまで、待っていてくれますか?と。

意を決して顔を上げた、その時。

「だけど、本当に行っちゃうんだね…。日本に出兵しちゃうんだね…」

そうそう日本に、、、ん?
ん?




ん?





日本に出兵?



ここで一瞬思わずちょっと吹き出してしまったのですが、ここでも早急に設定を組み直し、ああ、この自分の幼馴染はちょっと頭の弱い子なんだな、だめだぞ、自分だからいいようなものの、人前でそんな間違えしたら非国民になっちゃうぞ、も〜、やれやれ、ってな感じで

「日本から行くんだよ」

と、さっきまで漂っていた悲しい空気を断ち切るように、若干笑いながら喋ると、

「何言ってるの!」

と言われ、あれ?あれ?なに?なんなの?これはどういう設定なの?と首を傾げていると、なんだか目の前の幼馴染が、自らの服装をものすごい勢いアピールしてきたのでちゃんと服を見てみると目に飛び込んできたのはチャイナドレス。




チャイナドレス。



幼馴染が来ていたのは、チャイナドレス。




チャイナ、ドレス。








チャイナドレス=中国



中国から出兵=人民解放軍



日本に出兵=日本に侵略





「え、えっと、あの、そういう…?」

「これから日本に出兵しに行くんじゃない!」




あ、あ〜…そういう設定だったのか〜…自分はちょっと勘違いしてたかな〜…あ、日本鬼子をぶっ殺しに行く的な、漁船に乗ってサンゴ取りに行く的な、人海戦術で突撃的な、そんな感じだったのね〜…う〜んこれはね〜あの〜、えーっと、え、え、え、うん、え、俺中国人だったの?設定中国人だったの??嘘でしょ??なにそれなにそれ怖い知らない聞いてないやめて設定全部飛んだよ今までの設定なんだったんだよ返してよ俺の入り込んだ世界を返してよもうとんでもない設定ぶっ込んできちゃったよもうなにそれ?自分の自己を措定していた第三者則ち神が目の前で撲殺されているとことを見ている気分ですよ。本当にもうやめてよ俺の神様いなくなっちゃったよ。いなくなっちゃったということは無精神状態に陥ったということであり則ち絶望の終わりの無い循環に落とし込められた訳ですからもう最悪ですよなにこれなにこれ。

とにかく…絶対生きて帰ってきてね…帰ってきたら、私と付き合ってくれる…?とかなんとか言ってましたけど、最早自分の耳には何も入ってこないですよそんなもんね、もうね、おれ人民解放軍だったのかよ!人民解放軍だったのかよ!もう一度言いますよ、人民解放軍だったのかよ!

一応、あ、はい、と言ってね、敬礼だけはしておいたんですけれども、もう完全に自分の世界が終演してしまっていましたから。アイデンティティの崩壊が起こっていますから。神様撲殺されてしまっていますから。もうなんなんだこれ!!と思っていたらさっきまで目の前にいた幼馴染がいきなりただの女子大生になって「はい終わりです〜」と部屋からさっさと出された訳で、これまた完全に冷めた感じで言われてしまった訳で、心に傷を残しながら、夜の三田に出兵していったのでございました。






という感じでね、まあ、よくやりますよね。すごい企画ですね。でも中々楽しかったです。来年は「戦場」のシチュエーションで行こうかな!是非皆で戦場のシチュエーションで行きましょう!!








おわり







by hayashihiromu | 2014-11-25 22:37 | 普通

三田祭①〜イケメンさんに壁ドンされて〜


今年も三田祭が終了しました。
自分は辯論部という福澤諭吉先生が創設した日本最古のサークルに入っているのですが、今年の三田祭ではその辯論部で中国に関する講演会を主催しました。

去年は片山杜秀教授をお招きして、また、自分も登壇させて頂き、「国の死に方」というテーマで論議を交わさせていただいたのですが、(片山杜秀教授との公開討論会『国の死に方〜戦前日本と現在〜』①安倍政権の意図②天皇制の変遷+山本議員手紙問題)今年は特に登壇することもなく、ポスター作りとチラシを配ることに全力を尽くしました。

ポスターはと言いますと、クソみたいなド素人の割には中々いい感じのものを仕上げることができましてうんうん満足。Twitterに載せたあれですね。

チラシ配りに関しては、去年はですね、大混雑の人ごみの中、口から「あ…」という言葉をたまに零しながらチラシを抱えて延々ただただ立ち尽くし、結局1枚のチラシも配れなかったという悲劇が発生してしまっていたのですが、そのリベンジマッチといいましょうか、今年は頑張って5枚もチラシを配ることができましたようれしい。

そんなこんなで講演会が無事に終わると、学園祭を満喫するために雑踏の中に繰り出しました。去年は、ドランプの大富豪で勝ち抜いたら商品を貰える、という企画に友達と2人で参加し、あっさり一回戦で負けてそのまま家に帰っただけだったので、今年は満喫するべく色々探っていると、なんやかんやで「慶應が誇るイケメンがタロット占いの結果を壁ドンで伝えます」という企画に行くことに。まあこれは行くよね。

様々な種類の女性で埋め尽くされた大行列に30分ほど並んだところでとうとう自分達の番。しかしまだこの段階では、正直イケメンと言ってもたかがしれてる、どうせなよなよしてたり髪型で誤摩化してるだけのゴボウみたいな人ばかりで、椎名桔平さん的な人はいないんだろうな、と舐めた感じでいた訳ですけれども、受付で300円(200円だったけ?)を払っている時に入り口からチラッと見えたイケメンにあれれ??

いやいや違うんだ自分は茶化し半分というか、まあ少し話しの種になればいいかな、的な感じで来ている訳で、別にドキドキするために来ている訳ではないのですから、いや、ね、うん、そもそも自分は大森南朋さんや黒猫チェルシーの澤さんの腕にはときめくけれども、こんな昨今のイケメンには全くもって興味が無かったはずであり、っていうか自分は完全なる男ですから何言ってんのバカじゃないのとぶつぶつ言っている内にいよいよ中に入って自分の担当のイケメンさんがいる席に座りました。

そのイケメンさんは、正直そこまで凄いイケメンという訳ではなかったので、ふん、まあ所詮この程度ですか、さっき入り口から見たイケメンさんには正直イケメン過ぎてビビって思わずビビったという意味でドキドキしてしまったけれども、自分の担当のイケメンさんは大したことないな、うんうん、と余裕をぶっこいていた自分はまだ「イケメン」というものを見くびっていたのでしょう。

自分より1つ年上のそのイケメンさんは、「男の人がお客さんだと緊張するんですよ〜」とハニカミながら喋ってこられて、おお、そういう作戦か、なんだかかわいい人懐っこい感じできて油断させたところでボディーブローを放り込んでくるつもりだな、そんな戦法は効かないもんね!と自分はしっかり脇を締めながら雑談していると、なぜか進路の話しになり、気がつけば凄く会話が弾んでいました。

この企画のコンセプトはタロット占いの結果を壁ドンで伝える、ということだったのですが、心地の良い雑談でいつの間にかガードを下げきって脇を締めるどころかばんざーい!ってしているレベルになっていた自分は、結構マジな悩みを占って欲しい、と自然と頼んでいました。これぞイケメンマジック。

タロットカードを1枚引くと、「分かりました、では立って下さい」と言われ、もう言われるがままに立つと、その瞬間に壁際に追いやられる訳ですよずんずんずんずんずんずんと!そしてさっきまではにかんでいたイケメンさんの顔がすっと真面目になったかと思いきや自分の顔の横をドン!!

え、え、え、と頭が真っ白になっている内にイケメンさんの顔が自分の顔に近づいてきて自分の頬にイケメンさんの頬が当たるか当たらないかのところまで近づいてきて耳元で占いの結果をイケメンな声でわああああああああああぁああぁぁあぁぁぁ…。






今まではですね、アウトレイジの椎名桔平さんや、この前のリーガルハイスペシャルの大森南朋さんみたいな人にときめいていた訳ですけれども、ああ、なんだか昨今のイケメンもいいな、と思った次第であります。すっごくドキドキしてしまいましたよはい。

いや、イケメンというよりね、人に壁を作らない+イケメンのコンビネーションだと思いますね。いやはや、学びましたよ。

しかも耳元ですごいいいこと言ってくれるんですもん。そりゃドキドキしますよ。さすが慶應生ですね。即興であそこまでできるとは、勉強だけじゃないな、と思いましたね。自分も見習わなければ。イケメンさんに。あんなイケメンさんになりたい。






という訳でね、ひとしきりイケメンさんに興奮したあと、今度は打って変わって、200円払えば女子大生に自分の好きなシチュエーションで告白してもらえる、という企画に行ったのですが、そして自分はそこで「出兵」というシチュエーションを頼んだのですが、それはまた今度。







つづく




















by hayashihiromu | 2014-11-25 16:37 | 普通

キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰 2


前回の『死に至る病』と「永劫回帰」についてのつらつらうだうだとした文章を、現代社会にもう少し結びつけてみます。

現代社会に蔓延る病理は、自己の無精神性であるとするのならば、絶望の循環が社会を覆っていることとなります。人は自らの不均衡状態、例えば、本当の自分と、想像的な、空想的なものの中に生きる自分、又、世俗の中で生きる自分、その関係が崩れている状態、その状態を「地上的なもの」で覆い隠し、一時の平穏を手に入れます。そして、その自らが大きな価値を置いている「地上的なもの」が自らの手から離れた瞬間に、その関係の齟齬が露呈されるものの、本来的な自己からは逃避し、「時間が解決してくれる」、「他の何かに没頭する」、「別のものに大きな価値を置き直す」、という具合にまたもや「地上的なもの」で齟齬を覆い隠します。この繰り返しが起こっているということです。

1つ考えることがあるとするのならば、果たして、この現代の社会の中で、自己の齟齬を覆い隠せるだけの「地上的なもの」が存在するのか、ということです。これは、2つの側面から見ることができます。

第一に、言葉通り、大多数の人の自己の齟齬を誤摩化せるだけの「地上的なもの」が存在していないのではないかという疑問です。数十年前までの日本には、たしかにその「地上的なもの」が存在していたと思います。戦後急速に無精神となってしまったものの、高度経済成長の中で、自然と価値を置くことが出来る、そして多くの人がそれを共有できるだけのリソースがありました。新しく生み出される物、価値観、豊かさ、そして何より、成長がもたらす未来への希望は、無精神であるが故に反省せずに放置される不均衡状態の自己を覆い隠すに足りるものであったのです。一度そのものが失われたとしても、すぐに代わりの物が見つかるのです。それほどまでに、「地上的なもの」で社会は溢れていました。

しかし、現在の社会ではどうでしょうか。それこそ、物や情報で溢れた社会である故に、より多くの「地上的なもの」を得られるかのように見えます。しかし実情は、物や情報で溢れた社会であるが故に、「地上的なもの」ですら喪失しているのです。まずそもそも、仕事が無い。自分のやりたい仕事、満足のできる仕事に付ける人は限られた人間です。それだけでなく、非正規雇用やブラック企業が増える中、お金や時間までもが失われて行きます。そこに加えて、デフレです。未来に希望を持つことができなくなっている事実は、内閣府が昨年行った若者に対する調査に明確にでています。古市憲寿氏著の『絶望の国の幸福な若者たち』が引っ繰り返ったのです。

このようなことを考えてみると、自らの絶望を覆い隠す「地上的なもの」すら無いのが現在の社会なのではないか、という疑問が生まれます。

第二に、そもそも「地上的なもの」に価値を置くことができなくなっているのではないか、という疑問です。無精神であると同時に、社会的規範(大澤真幸氏の言う第三者の審級)すら無くなった現在、何が正しいのかを判断できなくなっている訳です。だからこそ、そもそも物に価値を置けない。その価値を置く判断基準さえ無い。そのような現象が起こっているような気がします。


グローバル化と共にある歩む日本において、このような社会がこれからより加速していくことは目に見えている事実です。
だからこそより自らの実存を意識しなければならないのですが、そんなことはできたもんじゃない。だからこそ、色々と考えてみることが必要なんだとは思いますが、、、、
うーん。どうしよう。
ひとつの方法として、やっぱり前回書いたニーチェの永劫回帰は、中々面白い、有用なものではあると思いますねー。





おわり








by hayashihiromu | 2014-11-11 21:59 | 普通

キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰


キルケゴールとニーチェに共通することは、キリスト教の否定と、キリストの肯定です。異なる点は、絶望に対する解決法です。キルケゴールは真にキリスト教徒であることを提唱したのに対して、ニーチェは絶望の肯定を提唱しました。

では、そもそも絶望とはどういう状態のことなのでしょうか。

キルケゴールは、自己の不均衡が絶望状態であると述べています。
そもそも自己とは、「ある関係それ自身に関係する関係」であるとしています。人間とは、あらゆる関係の綜合です。無限と有限、自由と必然、理想と現実、自分と他人、その他諸々、あらゆる関係の綜合です。しかし、この関係は人間にのみ備わるものではありません。この関係が、この関係自身を意識すること、それが人間であり、自己であります。

この関係がこの関係を意識する時、この自らの関係が正しいのか、それとも正しくないのかを考えます。その時に、必ず必要なものが判断基準です。なにをもって正しい、則ち、関係が均衡状態にあるのかを考えるためには、その均衡状態の規範がなければなりません。キルケゴールは、その規範こそが人間にのみ備わるものであると言います。そしてその規範を精神と呼んでいます。

「人間とは精神である」

これは、キルケゴールの『死に至る病』の冒頭に書かれている言葉です。では、その精神とは何なのか。規範とは何なのか。キルケゴールは、精神のことを神(=キリスト)であると述べています。なぜならば、人間の自己を措定しているのは、その自己自身ではなく、第三者だからです。人間は、自己と決別することができないからこそ、絶望するのです。もし、自己を自己自身で措定しているのであるならば、今の自己が嫌だった場合、別の自己に作り替えることができるはずです。しかし、人間にはそれができない。もう少し具体的にいえば、人は自らの性格、才能、能力とは簡単に決別できない、ということです。その自らの性格、才能、能力が嫌だったとしても、変えることはできない。だからこそ絶望する。したがって、自己は第三者によって規定されているものなのだ、とキルケゴールは考えた訳です。

だからこそ、人間には、普遍的で永遠的な規範、則ち神が備わっており、その規範と照らし合わせることで、人間は自らの生が正しいのか正しくないのかを判断できるのです。規範と対面した時に自らの状態が不均衡であれば、それを均衡状態にするように努力するからです。


基本的に、人間が生きていく上で、様々な関係が自然と均衡状態になることはありません。生きている中で、かならずどこかで不均衡状態に陥ります。その不均衡状態を埋めるための手助けが、規範です。規範が無いと、自分が不均衡状態であったとしてもそれを認識することはできないばかりか、不均衡を均衡へと変化させることができません。なぜなら、どこがどのように不均衡であるかが分からないからです。

そのため、規範を失った人は「地上的なもの」を求めます。物やお金、地位、名声、情報、他人を闇雲に求めます。デタラメにひたすらそれらを求めるおかげで、一時は自らの不均衡状態を忘れることができます。誤摩化すことが出来ます。しかし、不均衡であることには変わりがありません。

この状態を、キルケゴールは「絶望の第一形態」と呼んでいます。絶望している(不均衡状態に陥っている)のにも関わらず、それに気付いていない。気付いていないということは、自己を認識していないということ。自己を認識していないということは、主体性もクソも無いということ。そのため、世の中にフラフラ流される。人の意見にフラフラ流される。「地上的なもの」に価値を置き、闇雲に必死にひたすらにそれらを求め続ける。

すると、すぐに「絶望の第二形態」が訪れます。それは、その「地上的なもの」が失われたときです。大切な物を失った時、お金を失った時、地位を失った時、友達を失った時、恋人を失った時です。それらがあるおかげで自らの様々な関係が不均衡であることを隠していたのに、それが欠けた途端、その不均衡が目の前に現れます。

人間は、「地上的なもの」が失われた時に絶望を感じます。しかし、キルケゴールに言わせればそれ自体は絶望ではないのです。自己の関係が不均衡状態に陥り、そしてそれを意識していないこと、それを「絶望」であると述べているのです。具体的に、4つの例を挙げています。

1つ目は、自己の関係が無限性に偏っている、「無限性の絶望」です。これは、感情や認識、意思が想像的なものとなり、延いては自己が想像的なものとなることです。価値の無いものに多大な価値を置くことです。例えとしては、「宗教への単なる陶酔」が挙げられています。

2つ目は、「有限性の絶望」です。これは、社会で生きるために個性を没落させることです。地上的なものを手に入れるために、自己を省みないことです。そのため、社会の中では、「地上的なもの」、その意味で成功するでしょう。しかし、そこに自己はありません。

3つ目は、「可能性の絶望」です。これは、本当の自己自身を見ないで、空想的な自己自身を見ている状態です。人は、この状態に陥っている人を、「非現実的な人間」であると言います。砕けた言い方をするならば、「俺はすごいからなんでもできるぞ!」と根拠なく考え、そのように生きている人のことを言います。その人自身の自己では成し得ないことを、空想的にできると考えているのです。

4つ目は、「必然性の絶望」です。これは、信じることをやめた人間です。いかなる苦境に陥ったとしても、信じる心があれば、どこまでも努力できます。それをせず、すべての状況を諦観的に捉える場合のことです。


自己が不均衡状態になると、これらの「絶望」が出てきます。そして、これらの絶望状態にあり、それを反省するための精神が無い時、人は「地上的なもの」などに価値を置き、齟齬をきたしている自己を覆い隠すのです。そして、自らが大きな価値を置いているものが失われた時、人は「自分は今絶望している」と思います。この時に本来的な自己を認識することができるのならば「絶望」から抜けだせることができるのですが、人はそうしません。現状の自己を認めたくないのです。

キルケゴールの「絶望」ではない絶望状態に陥った人間の考えることとは、古今東西いつでも一緒です。『死に至る病』で、その例として挙っているのは、時間が解決してくれる、他のことに熱中して忘れる、別の何かを見つける、といったものです。現代と何も変わりません。つまりこれは、「地上的なもの」で自己を覆い隠し、有耶無耶にしているのです。

そしてその結果、またもや人は「絶望の第一形態」に戻ります。則ち、永遠と続く、終わりの無い絶望の循環が発生しているのです。つまり、無精神の人間は、決して絶望から逃れることはできないのです。

人が何かを求めるのは、自らの絶望を、自己の不均衡を、認めたくない性格、能力、自らの状況、それを覆い隠し、誤摩化し、曖昧にし、有耶無耶にするためです。そしてそのような行動は、常に次なる絶望への一歩となっています。無精神の人間は、絶望を隠すために何かを求め、そしてそれがまた苦しい絶望を創出し、そしてまた絶望を隠す為に何かを求め、そしてそれがまた絶望を創出する、という、ただその繰り返し、それだけの人生を歩むことになります。

だからこそ、キルケゴールは真にキリストを信仰することを提唱したのです。自己を認識することができれば、主体的で、俗世に縛られることなく、自らを突き詰めて行ける、そのような生を生きることができるからです。




突然、ここで話しは変わりますが、ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の冒頭で、「神は死んだ」と述べました。キルケゴールの絶望の議論にニーチェを当てはめた場合、この発言により、人間から完全に精神が喪失したこととなります。無精神の人間が極大に誕生し、終わりの無い絶望の循環が社会を覆いました。絶望の循環が社会を動かし、人を動かす。永遠に同じことの繰り返し。絶望するために絶望を覆い隠す。それだけの生が、至る所に芽吹いたのです。

ニーチェやキルケゴールが生きた社会、以後の社会、そして現在も含めた社会、それに生きる人。彼ら、そして私達は、産業革命以降、生活が近代化し、時間と金に雁字搦めにされながら生きていく中で、宗教や慣習、伝統的な規範がどんどん喪失していきました。その結果、人々に規範がなくなったのです。

現在の社会を生きる私達に、普遍的で、絶対的で、永遠的な規範はありません。その結果、正しさを喪失します。何が正解か分からなくなります。どのように生きていけばいいのか、分からなくなります。そして、再帰性(ああすればよかったのではないだろうか、いや、こうすればよかったのではないだろうか、ああすべきなのではないだろうか、こうすべきではないだろうかと永遠悩む感情)が増大します。


絶望と規範の議論が混在していますが、ここまでで言いたいこととは、精神の喪失により、絶望のために生き、永遠と苦悩する、そしてその苦悩には意味など無い。その意味の無い苦悩を永遠抱き続ける、それだけが人生、ということです。

しかし、それだけでは、何とも悲しいではありませんか。生きることが、あまりにも苦しすぎる。生きる意味が分からなくなる。では、キリストを真に信仰すればいいのでしょうか?日本人にはハードルが高すぎます。では、成す術も無く、絶望のために生きながらえなければいきないのでしょうか。

自分は、そんなのはごめんです。だからこそ、1つの方法としてここで提示したいことは、ニーチェの「永劫回帰」です。


「神は死んだ」の発言により無精神に陥った人間は、絶望の循環の中で生きることとなりました。しかし、ニーチェはこの発言をした『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、「永劫回帰」を提唱しています。


『幻影と謎』の章の中で、ツァラトゥストラは、過去に永遠と延びている道と、未来に永遠と延びている道に立っている「瞬間」という名の門にやってきます。この2つ道は、直線であるが故に、一見互いに永遠に喰い違うもの、矛盾しているものであるように見えます。しかし、ここで「重力の魔」と呼称される俗世に人を縛り付ける者はこう言います。


「直線をなすものは、すべていつわりなのだ」
「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ」(岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った 下』p15〜)

すると、ツァラトゥストラとはこう考えます。

「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?」

「ここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、――我々はみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?」

「そしてまためぐり戻ってきて、あの向こうへ延びてるもう1つ道、あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか、――我々は永遠にわたってめぐり戻ってこなければならないのではなかろうか?」


この後、ツァラトゥストラの目の前に、口の中に黒くて重たいヘビが入り込んだ牧人が突然現れます。ツァラトゥストラは彼を助けようとしますが、最早どうすることもできません。そこで彼は叫びます。「噛むんだ!噛むんだ!頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」

その時、牧人はヘビを噛み切ります。そして、飛び起きます。すると、牧人は牧人ではなくなり、もやは人間でもなくなり、1人の変容した者、光に包まれた者となるのです。



ニーチェは、この世は永遠に繰り返すのだというのです。それは、ただの繰り返しではありません。そっくりそのまま、全ての動作が繰り返すのです。今した瞬きも、呼吸も、咳も、漂って来る匂いも、気温も、憂鬱も、疼痛も、産毛の位置も、息を吸い込む量も、吐く量も、それら全てが、寸分違わず、過去に起こったことであり、未来で起こることであり、そして今まさにこの「瞬間」に起こっていることだというのです。

ニーチェは『この人を見よ』の中で、「永劫回帰」は「およそ到達しうる最高の肯定の形式」であると述べています。「永劫回帰」は、ただの決定論、運命論ではありません。ニヒリズムでもありません。肯定なのです。

無精神となり、絶望から逃れることができなくなった人々が、ただただその絶望を絶望しながら甘受するのではなく、その絶望自体を肯定する。では、いかにして肯定するのか?何を根拠に、何を拠り所として肯定するのか?それは、「永劫回帰」の認識によってです。

自分の今の絶望の状態は、過去に起こったことであり、未来にも起こることならば、自分の歩みは規定されたものとなります。そしてそれは、自分自身に規定されたものです。自分の肯定の意思によって、自分の行動が全て正当化されます。

だからこそ、どこまでも努力できるのです。大きな選択が訪れたとしても、再帰性の中でただただ踞るのではなく、自らの行動に正統性を持つことができるのです。繰り返しますが、その正統性を賦与するものとは、自分です。自分が過去に行ったことであり、未来に行うことなのですから。

この「永劫回帰」を認識することが、永遠に続く絶望の循環から抜け出すための思想なのです。しかしそれは並大抵のことではありません。なんせ、最高の肯定です。口に入り込んだヘビを噛み砕くのは、その人の意思だけなのです。そしてそれを噛み砕いた瞬間、人は「超人」になります。無精神からも、ニヒリズムからも解放され、自らの行動、その一挙一動を肯定できるのです。

「神は死んだ」の発言で、人は苦悩を背負い続ける、又、絶望から必死に目を背け、誤摩化すだけの人生を歩むことになりました。しかし、その絶望ですら肯定する。「地上的なもの」が失われた時も、それ自体を、過去の自分と、未来の自分を根拠に肯定する。だからこそ、どこまでも主体的に、本来的な生を全うすることが可能になるのです。ニーチェの言う賤民的、家畜的大衆、則ち畜群から抜け出ることができるのです。


しかしながら、「永劫回帰」の認識とは、誠に高尚なものであります。普通はできません。だけれども、自らの抱く絶望とはどういうものなのか、ということを、キルケゴールの分析と共に認識することは、きっとこれからの人生にとって、非常に有益なものなのではないかな、と思った次第であります。


『死に至る病』を読むのなら、ちくま学芸文庫の桝田哲三郎訳が非常に優れているので、参考にしてください。









おわり










by hayashihiromu | 2014-11-10 23:57 | 普通

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