ヘンリーヘンリーズのギター担当。


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三田祭①〜イケメンさんに壁ドンされて〜


今年も三田祭が終了しました。
自分は辯論部という福澤諭吉先生が創設した日本最古のサークルに入っているのですが、今年の三田祭ではその辯論部で中国に関する講演会を主催しました。

去年は片山杜秀教授をお招きして、また、自分も登壇させて頂き、「国の死に方」というテーマで論議を交わさせていただいたのですが、(片山杜秀教授との公開討論会『国の死に方〜戦前日本と現在〜』①安倍政権の意図②天皇制の変遷+山本議員手紙問題)今年は特に登壇することもなく、ポスター作りとチラシを配ることに全力を尽くしました。

ポスターはと言いますと、クソみたいなド素人の割には中々いい感じのものを仕上げることができましてうんうん満足。Twitterに載せたあれですね。

チラシ配りに関しては、去年はですね、大混雑の人ごみの中、口から「あ…」という言葉をたまに零しながらチラシを抱えて延々ただただ立ち尽くし、結局1枚のチラシも配れなかったという悲劇が発生してしまっていたのですが、そのリベンジマッチといいましょうか、今年は頑張って5枚もチラシを配ることができましたようれしい。

そんなこんなで講演会が無事に終わると、学園祭を満喫するために雑踏の中に繰り出しました。去年は、ドランプの大富豪で勝ち抜いたら商品を貰える、という企画に友達と2人で参加し、あっさり一回戦で負けてそのまま家に帰っただけだったので、今年は満喫するべく色々探っていると、なんやかんやで「慶應が誇るイケメンがタロット占いの結果を壁ドンで伝えます」という企画に行くことに。まあこれは行くよね。

様々な種類の女性で埋め尽くされた大行列に30分ほど並んだところでとうとう自分達の番。しかしまだこの段階では、正直イケメンと言ってもたかがしれてる、どうせなよなよしてたり髪型で誤摩化してるだけのゴボウみたいな人ばかりで、椎名桔平さん的な人はいないんだろうな、と舐めた感じでいた訳ですけれども、受付で300円(200円だったけ?)を払っている時に入り口からチラッと見えたイケメンにあれれ??

いやいや違うんだ自分は茶化し半分というか、まあ少し話しの種になればいいかな、的な感じで来ている訳で、別にドキドキするために来ている訳ではないのですから、いや、ね、うん、そもそも自分は大森南朋さんや黒猫チェルシーの澤さんの腕にはときめくけれども、こんな昨今のイケメンには全くもって興味が無かったはずであり、っていうか自分は完全なる男ですから何言ってんのバカじゃないのとぶつぶつ言っている内にいよいよ中に入って自分の担当のイケメンさんがいる席に座りました。

そのイケメンさんは、正直そこまで凄いイケメンという訳ではなかったので、ふん、まあ所詮この程度ですか、さっき入り口から見たイケメンさんには正直イケメン過ぎてビビって思わずビビったという意味でドキドキしてしまったけれども、自分の担当のイケメンさんは大したことないな、うんうん、と余裕をぶっこいていた自分はまだ「イケメン」というものを見くびっていたのでしょう。

自分より1つ年上のそのイケメンさんは、「男の人がお客さんだと緊張するんですよ〜」とハニカミながら喋ってこられて、おお、そういう作戦か、なんだかかわいい人懐っこい感じできて油断させたところでボディーブローを放り込んでくるつもりだな、そんな戦法は効かないもんね!と自分はしっかり脇を締めながら雑談していると、なぜか進路の話しになり、気がつけば凄く会話が弾んでいました。

この企画のコンセプトはタロット占いの結果を壁ドンで伝える、ということだったのですが、心地の良い雑談でいつの間にかガードを下げきって脇を締めるどころかばんざーい!ってしているレベルになっていた自分は、結構マジな悩みを占って欲しい、と自然と頼んでいました。これぞイケメンマジック。

タロットカードを1枚引くと、「分かりました、では立って下さい」と言われ、もう言われるがままに立つと、その瞬間に壁際に追いやられる訳ですよずんずんずんずんずんずんと!そしてさっきまではにかんでいたイケメンさんの顔がすっと真面目になったかと思いきや自分の顔の横をドン!!

え、え、え、と頭が真っ白になっている内にイケメンさんの顔が自分の顔に近づいてきて自分の頬にイケメンさんの頬が当たるか当たらないかのところまで近づいてきて耳元で占いの結果をイケメンな声でわああああああああああぁああぁぁあぁぁぁ…。






今まではですね、アウトレイジの椎名桔平さんや、この前のリーガルハイスペシャルの大森南朋さんみたいな人にときめいていた訳ですけれども、ああ、なんだか昨今のイケメンもいいな、と思った次第であります。すっごくドキドキしてしまいましたよはい。

いや、イケメンというよりね、人に壁を作らない+イケメンのコンビネーションだと思いますね。いやはや、学びましたよ。

しかも耳元ですごいいいこと言ってくれるんですもん。そりゃドキドキしますよ。さすが慶應生ですね。即興であそこまでできるとは、勉強だけじゃないな、と思いましたね。自分も見習わなければ。イケメンさんに。あんなイケメンさんになりたい。






という訳でね、ひとしきりイケメンさんに興奮したあと、今度は打って変わって、200円払えば女子大生に自分の好きなシチュエーションで告白してもらえる、という企画に行ったのですが、そして自分はそこで「出兵」というシチュエーションを頼んだのですが、それはまた今度。







つづく




















# by hayashihiromu | 2014-11-25 16:37 | 普通

キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰 2


前回の『死に至る病』と「永劫回帰」についてのつらつらうだうだとした文章を、現代社会にもう少し結びつけてみます。

現代社会に蔓延る病理は、自己の無精神性であるとするのならば、絶望の循環が社会を覆っていることとなります。人は自らの不均衡状態、例えば、本当の自分と、想像的な、空想的なものの中に生きる自分、又、世俗の中で生きる自分、その関係が崩れている状態、その状態を「地上的なもの」で覆い隠し、一時の平穏を手に入れます。そして、その自らが大きな価値を置いている「地上的なもの」が自らの手から離れた瞬間に、その関係の齟齬が露呈されるものの、本来的な自己からは逃避し、「時間が解決してくれる」、「他の何かに没頭する」、「別のものに大きな価値を置き直す」、という具合にまたもや「地上的なもの」で齟齬を覆い隠します。この繰り返しが起こっているということです。

1つ考えることがあるとするのならば、果たして、この現代の社会の中で、自己の齟齬を覆い隠せるだけの「地上的なもの」が存在するのか、ということです。これは、2つの側面から見ることができます。

第一に、言葉通り、大多数の人の自己の齟齬を誤摩化せるだけの「地上的なもの」が存在していないのではないかという疑問です。数十年前までの日本には、たしかにその「地上的なもの」が存在していたと思います。戦後急速に無精神となってしまったものの、高度経済成長の中で、自然と価値を置くことが出来る、そして多くの人がそれを共有できるだけのリソースがありました。新しく生み出される物、価値観、豊かさ、そして何より、成長がもたらす未来への希望は、無精神であるが故に反省せずに放置される不均衡状態の自己を覆い隠すに足りるものであったのです。一度そのものが失われたとしても、すぐに代わりの物が見つかるのです。それほどまでに、「地上的なもの」で社会は溢れていました。

しかし、現在の社会ではどうでしょうか。それこそ、物や情報で溢れた社会である故に、より多くの「地上的なもの」を得られるかのように見えます。しかし実情は、物や情報で溢れた社会であるが故に、「地上的なもの」ですら喪失しているのです。まずそもそも、仕事が無い。自分のやりたい仕事、満足のできる仕事に付ける人は限られた人間です。それだけでなく、非正規雇用やブラック企業が増える中、お金や時間までもが失われて行きます。そこに加えて、デフレです。未来に希望を持つことができなくなっている事実は、内閣府が昨年行った若者に対する調査に明確にでています。古市憲寿氏著の『絶望の国の幸福な若者たち』が引っ繰り返ったのです。

このようなことを考えてみると、自らの絶望を覆い隠す「地上的なもの」すら無いのが現在の社会なのではないか、という疑問が生まれます。

第二に、そもそも「地上的なもの」に価値を置くことができなくなっているのではないか、という疑問です。無精神であると同時に、社会的規範(大澤真幸氏の言う第三者の審級)すら無くなった現在、何が正しいのかを判断できなくなっている訳です。だからこそ、そもそも物に価値を置けない。その価値を置く判断基準さえ無い。そのような現象が起こっているような気がします。


グローバル化と共にある歩む日本において、このような社会がこれからより加速していくことは目に見えている事実です。
だからこそより自らの実存を意識しなければならないのですが、そんなことはできたもんじゃない。だからこそ、色々と考えてみることが必要なんだとは思いますが、、、、
うーん。どうしよう。
ひとつの方法として、やっぱり前回書いたニーチェの永劫回帰は、中々面白い、有用なものではあると思いますねー。





おわり








# by hayashihiromu | 2014-11-11 21:59 | 普通

キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰


キルケゴールとニーチェに共通することは、キリスト教の否定と、キリストの肯定です。異なる点は、絶望に対する解決法です。キルケゴールは真にキリスト教徒であることを提唱したのに対して、ニーチェは絶望の肯定を提唱しました。

では、そもそも絶望とはどういう状態のことなのでしょうか。

キルケゴールは、自己の不均衡が絶望状態であると述べています。
そもそも自己とは、「ある関係それ自身に関係する関係」であるとしています。人間とは、あらゆる関係の綜合です。無限と有限、自由と必然、理想と現実、自分と他人、その他諸々、あらゆる関係の綜合です。しかし、この関係は人間にのみ備わるものではありません。この関係が、この関係自身を意識すること、それが人間であり、自己であります。

この関係がこの関係を意識する時、この自らの関係が正しいのか、それとも正しくないのかを考えます。その時に、必ず必要なものが判断基準です。なにをもって正しい、則ち、関係が均衡状態にあるのかを考えるためには、その均衡状態の規範がなければなりません。キルケゴールは、その規範こそが人間にのみ備わるものであると言います。そしてその規範を精神と呼んでいます。

「人間とは精神である」

これは、キルケゴールの『死に至る病』の冒頭に書かれている言葉です。では、その精神とは何なのか。規範とは何なのか。キルケゴールは、精神のことを神(=キリスト)であると述べています。なぜならば、人間の自己を措定しているのは、その自己自身ではなく、第三者だからです。人間は、自己と決別することができないからこそ、絶望するのです。もし、自己を自己自身で措定しているのであるならば、今の自己が嫌だった場合、別の自己に作り替えることができるはずです。しかし、人間にはそれができない。もう少し具体的にいえば、人は自らの性格、才能、能力とは簡単に決別できない、ということです。その自らの性格、才能、能力が嫌だったとしても、変えることはできない。だからこそ絶望する。したがって、自己は第三者によって規定されているものなのだ、とキルケゴールは考えた訳です。

だからこそ、人間には、普遍的で永遠的な規範、則ち神が備わっており、その規範と照らし合わせることで、人間は自らの生が正しいのか正しくないのかを判断できるのです。規範と対面した時に自らの状態が不均衡であれば、それを均衡状態にするように努力するからです。


基本的に、人間が生きていく上で、様々な関係が自然と均衡状態になることはありません。生きている中で、かならずどこかで不均衡状態に陥ります。その不均衡状態を埋めるための手助けが、規範です。規範が無いと、自分が不均衡状態であったとしてもそれを認識することはできないばかりか、不均衡を均衡へと変化させることができません。なぜなら、どこがどのように不均衡であるかが分からないからです。

そのため、規範を失った人は「地上的なもの」を求めます。物やお金、地位、名声、情報、他人を闇雲に求めます。デタラメにひたすらそれらを求めるおかげで、一時は自らの不均衡状態を忘れることができます。誤摩化すことが出来ます。しかし、不均衡であることには変わりがありません。

この状態を、キルケゴールは「絶望の第一形態」と呼んでいます。絶望している(不均衡状態に陥っている)のにも関わらず、それに気付いていない。気付いていないということは、自己を認識していないということ。自己を認識していないということは、主体性もクソも無いということ。そのため、世の中にフラフラ流される。人の意見にフラフラ流される。「地上的なもの」に価値を置き、闇雲に必死にひたすらにそれらを求め続ける。

すると、すぐに「絶望の第二形態」が訪れます。それは、その「地上的なもの」が失われたときです。大切な物を失った時、お金を失った時、地位を失った時、友達を失った時、恋人を失った時です。それらがあるおかげで自らの様々な関係が不均衡であることを隠していたのに、それが欠けた途端、その不均衡が目の前に現れます。

人間は、「地上的なもの」が失われた時に絶望を感じます。しかし、キルケゴールに言わせればそれ自体は絶望ではないのです。自己の関係が不均衡状態に陥り、そしてそれを意識していないこと、それを「絶望」であると述べているのです。具体的に、4つの例を挙げています。

1つ目は、自己の関係が無限性に偏っている、「無限性の絶望」です。これは、感情や認識、意思が想像的なものとなり、延いては自己が想像的なものとなることです。価値の無いものに多大な価値を置くことです。例えとしては、「宗教への単なる陶酔」が挙げられています。

2つ目は、「有限性の絶望」です。これは、社会で生きるために個性を没落させることです。地上的なものを手に入れるために、自己を省みないことです。そのため、社会の中では、「地上的なもの」、その意味で成功するでしょう。しかし、そこに自己はありません。

3つ目は、「可能性の絶望」です。これは、本当の自己自身を見ないで、空想的な自己自身を見ている状態です。人は、この状態に陥っている人を、「非現実的な人間」であると言います。砕けた言い方をするならば、「俺はすごいからなんでもできるぞ!」と根拠なく考え、そのように生きている人のことを言います。その人自身の自己では成し得ないことを、空想的にできると考えているのです。

4つ目は、「必然性の絶望」です。これは、信じることをやめた人間です。いかなる苦境に陥ったとしても、信じる心があれば、どこまでも努力できます。それをせず、すべての状況を諦観的に捉える場合のことです。


自己が不均衡状態になると、これらの「絶望」が出てきます。そして、これらの絶望状態にあり、それを反省するための精神が無い時、人は「地上的なもの」などに価値を置き、齟齬をきたしている自己を覆い隠すのです。そして、自らが大きな価値を置いているものが失われた時、人は「自分は今絶望している」と思います。この時に本来的な自己を認識することができるのならば「絶望」から抜けだせることができるのですが、人はそうしません。現状の自己を認めたくないのです。

キルケゴールの「絶望」ではない絶望状態に陥った人間の考えることとは、古今東西いつでも一緒です。『死に至る病』で、その例として挙っているのは、時間が解決してくれる、他のことに熱中して忘れる、別の何かを見つける、といったものです。現代と何も変わりません。つまりこれは、「地上的なもの」で自己を覆い隠し、有耶無耶にしているのです。

そしてその結果、またもや人は「絶望の第一形態」に戻ります。則ち、永遠と続く、終わりの無い絶望の循環が発生しているのです。つまり、無精神の人間は、決して絶望から逃れることはできないのです。

人が何かを求めるのは、自らの絶望を、自己の不均衡を、認めたくない性格、能力、自らの状況、それを覆い隠し、誤摩化し、曖昧にし、有耶無耶にするためです。そしてそのような行動は、常に次なる絶望への一歩となっています。無精神の人間は、絶望を隠すために何かを求め、そしてそれがまた苦しい絶望を創出し、そしてまた絶望を隠す為に何かを求め、そしてそれがまた絶望を創出する、という、ただその繰り返し、それだけの人生を歩むことになります。

だからこそ、キルケゴールは真にキリストを信仰することを提唱したのです。自己を認識することができれば、主体的で、俗世に縛られることなく、自らを突き詰めて行ける、そのような生を生きることができるからです。




突然、ここで話しは変わりますが、ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の冒頭で、「神は死んだ」と述べました。キルケゴールの絶望の議論にニーチェを当てはめた場合、この発言により、人間から完全に精神が喪失したこととなります。無精神の人間が極大に誕生し、終わりの無い絶望の循環が社会を覆いました。絶望の循環が社会を動かし、人を動かす。永遠に同じことの繰り返し。絶望するために絶望を覆い隠す。それだけの生が、至る所に芽吹いたのです。

ニーチェやキルケゴールが生きた社会、以後の社会、そして現在も含めた社会、それに生きる人。彼ら、そして私達は、産業革命以降、生活が近代化し、時間と金に雁字搦めにされながら生きていく中で、宗教や慣習、伝統的な規範がどんどん喪失していきました。その結果、人々に規範がなくなったのです。

現在の社会を生きる私達に、普遍的で、絶対的で、永遠的な規範はありません。その結果、正しさを喪失します。何が正解か分からなくなります。どのように生きていけばいいのか、分からなくなります。そして、再帰性(ああすればよかったのではないだろうか、いや、こうすればよかったのではないだろうか、ああすべきなのではないだろうか、こうすべきではないだろうかと永遠悩む感情)が増大します。


絶望と規範の議論が混在していますが、ここまでで言いたいこととは、精神の喪失により、絶望のために生き、永遠と苦悩する、そしてその苦悩には意味など無い。その意味の無い苦悩を永遠抱き続ける、それだけが人生、ということです。

しかし、それだけでは、何とも悲しいではありませんか。生きることが、あまりにも苦しすぎる。生きる意味が分からなくなる。では、キリストを真に信仰すればいいのでしょうか?日本人にはハードルが高すぎます。では、成す術も無く、絶望のために生きながらえなければいきないのでしょうか。

自分は、そんなのはごめんです。だからこそ、1つの方法としてここで提示したいことは、ニーチェの「永劫回帰」です。


「神は死んだ」の発言により無精神に陥った人間は、絶望の循環の中で生きることとなりました。しかし、ニーチェはこの発言をした『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、「永劫回帰」を提唱しています。


『幻影と謎』の章の中で、ツァラトゥストラは、過去に永遠と延びている道と、未来に永遠と延びている道に立っている「瞬間」という名の門にやってきます。この2つ道は、直線であるが故に、一見互いに永遠に喰い違うもの、矛盾しているものであるように見えます。しかし、ここで「重力の魔」と呼称される俗世に人を縛り付ける者はこう言います。


「直線をなすものは、すべていつわりなのだ」
「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ」(岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った 下』p15〜)

すると、ツァラトゥストラとはこう考えます。

「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?」

「ここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、――我々はみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?」

「そしてまためぐり戻ってきて、あの向こうへ延びてるもう1つ道、あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか、――我々は永遠にわたってめぐり戻ってこなければならないのではなかろうか?」


この後、ツァラトゥストラの目の前に、口の中に黒くて重たいヘビが入り込んだ牧人が突然現れます。ツァラトゥストラは彼を助けようとしますが、最早どうすることもできません。そこで彼は叫びます。「噛むんだ!噛むんだ!頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」

その時、牧人はヘビを噛み切ります。そして、飛び起きます。すると、牧人は牧人ではなくなり、もやは人間でもなくなり、1人の変容した者、光に包まれた者となるのです。



ニーチェは、この世は永遠に繰り返すのだというのです。それは、ただの繰り返しではありません。そっくりそのまま、全ての動作が繰り返すのです。今した瞬きも、呼吸も、咳も、漂って来る匂いも、気温も、憂鬱も、疼痛も、産毛の位置も、息を吸い込む量も、吐く量も、それら全てが、寸分違わず、過去に起こったことであり、未来で起こることであり、そして今まさにこの「瞬間」に起こっていることだというのです。

ニーチェは『この人を見よ』の中で、「永劫回帰」は「およそ到達しうる最高の肯定の形式」であると述べています。「永劫回帰」は、ただの決定論、運命論ではありません。ニヒリズムでもありません。肯定なのです。

無精神となり、絶望から逃れることができなくなった人々が、ただただその絶望を絶望しながら甘受するのではなく、その絶望自体を肯定する。では、いかにして肯定するのか?何を根拠に、何を拠り所として肯定するのか?それは、「永劫回帰」の認識によってです。

自分の今の絶望の状態は、過去に起こったことであり、未来にも起こることならば、自分の歩みは規定されたものとなります。そしてそれは、自分自身に規定されたものです。自分の肯定の意思によって、自分の行動が全て正当化されます。

だからこそ、どこまでも努力できるのです。大きな選択が訪れたとしても、再帰性の中でただただ踞るのではなく、自らの行動に正統性を持つことができるのです。繰り返しますが、その正統性を賦与するものとは、自分です。自分が過去に行ったことであり、未来に行うことなのですから。

この「永劫回帰」を認識することが、永遠に続く絶望の循環から抜け出すための思想なのです。しかしそれは並大抵のことではありません。なんせ、最高の肯定です。口に入り込んだヘビを噛み砕くのは、その人の意思だけなのです。そしてそれを噛み砕いた瞬間、人は「超人」になります。無精神からも、ニヒリズムからも解放され、自らの行動、その一挙一動を肯定できるのです。

「神は死んだ」の発言で、人は苦悩を背負い続ける、又、絶望から必死に目を背け、誤摩化すだけの人生を歩むことになりました。しかし、その絶望ですら肯定する。「地上的なもの」が失われた時も、それ自体を、過去の自分と、未来の自分を根拠に肯定する。だからこそ、どこまでも主体的に、本来的な生を全うすることが可能になるのです。ニーチェの言う賤民的、家畜的大衆、則ち畜群から抜け出ることができるのです。


しかしながら、「永劫回帰」の認識とは、誠に高尚なものであります。普通はできません。だけれども、自らの抱く絶望とはどういうものなのか、ということを、キルケゴールの分析と共に認識することは、きっとこれからの人生にとって、非常に有益なものなのではないかな、と思った次第であります。


『死に至る病』を読むのなら、ちくま学芸文庫の桝田哲三郎訳が非常に優れているので、参考にしてください。









おわり










# by hayashihiromu | 2014-11-10 23:57 | 普通

『日本人畸形説』-岸田国士-


岸田国士と言えば、非常に著名な劇作家であります。翻訳家としても有名で、岸田国士訳の『にんじん』は多くの人が読んだことがあると思います。

『日本人畸形説』とは、1947年に書かれた文章です。今は青空文庫にありますね。


冒頭の文章がそこそこ有名だと思います。

「日本人とはおおかた畸形的なものから成り立っている人間で、どうかすると、それをかえって自分たちの特色のように思い込み、もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する一方、その畸形的なもののために絶えずおびやかされ、幻滅を味い、その結果、自分達の世界以外に「生命の完きすがた」とでもいうべき人間の影像を探し求めて、これにひそかなあこがれの情をよせる人間群である。」


簡単に言えば、日本人は精神が救いのない程おかしい人種なんだよ、と言っている訳です。日本人は皆「精神的畸形」であると言っている訳です。「畸形」という言葉は嫌な言葉ですが、岸田国士は、だからこそあえて使っています。しっかりと認識するためにです。

「精神的畸形」、その根幹は何かというと、「歪んだ自尊心」です。日本人の自尊心は劣等感の変形、強がりのことが多いため、だからこそ面目、面子などを重んじたり、威張りたいところを逆に卑下を誇張して同じ効果を狙ったりする訳ですね。
この自尊心が日本特有のジェンダー意識を作り上げたり、自分の意見を言わなかったり、卑屈な見栄をはったりする。そう述べられています。

現代の日本人も、異なった形で「畸形的」なものが現れているのではないでしょうか。
例えば、自国の芸術作品や偉業の評価は、基本的には外国経由ですよね。外国が評価したものを評価します。自分達はまだ「全き人間」ではない訳です。
他にも、現代の「畸形」を探してみると面白いですね。






おわり







# by hayashihiromu | 2014-10-29 00:12 | 普通

或るファミレスへの鎮魂歌

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。

いや、それ以前に、当たり前の話しですが、そもそも何を持って「善い」とするのか、それを定義する事自体が不可能ですよね。

特に現代社会において、大澤真幸氏風に言い換えると「第三者の審級」が完全に撤退した社会において、それがより顕著になってきていると思います。習俗的なものだけでなく、社会的な規範さえも朧げなものとなってしまったが故に、再帰性との戦いで心身を磨り減らすだけとなっている「毎日」が街の至る所に落ちています。

何が「善い」のか分からない。だけれども、自分の中でそれを見いださなければ生きられない。しかし、規範が無いから、正解が分からない。自己自身を認識できない。実存をつかみ取れない。

ようやく何か分かりかけたと思い込んだ時に齟齬が生じると、人は絶望の淵に立たされてしまいます。若かろうが、年を取っていようが、その計り知れない苦しみは、時に自らをてるてる坊主になぞらえ、時に線路の上で花を咲かし、時に鳥に憧れて、時に魚に憧れます。

このような精神状態に陥った時、一体何が、そこから人を引きずり上げてくれるのでしょうか。

ここに万能薬はありません。だからこそ、私も今、苦しんでいるのです。




あれは数日前の夜のことでした。外出中にお腹が空いてしまったため、1人でファミレスに入店しました。

明るくはきはきとした店員さんに席に案内され、元気もりもりな店員さんにスパゲティを注文したところ、10分も経たない内に料理が登場。

えらく速いな、と思い、ここで初めて店内を見渡してみると、お客さんがあまりいないことに気付きました。結果的に、この人の少なさが、若干ではありますが、私を救ったのです。

黙々とスパゲティを食べた後、少し本を読んでいたところ、急にお腹に違和感が訪れてしまいました。

元々自分はお腹が丈夫ではないため、外出中でも腹痛に見舞われることがしばしばあります。つまり、腹痛においてはある種ベテラン勢な訳ですね。ベテランにはあらゆる事態にも対応できる長年の実践経験とそこから生じる絶対的な勘が、得てして備わっているものです。そのため、あらゆる事態を想定しながら、慌てることなくトイレに歩いていきました。

10分ほどの時間が経ったころには、トイレで完璧に事を遂げた自分がいました。あとはズボンを穿いてトイレを流せば良い、という段階に達している自分がいました。

ここまできたら、もうどんな素人でも大丈夫ですよね。さらに自分はベテランですから。ベテラン勢ですから。歴戦の勇士勢ですから。もうすんなりとパンツを穿いて、ズボンを穿いて、トイレを流すレバーを操作しました。


ジャーーー!!!



そうです。いつもなら、普段なら、このような豪快な男らしい水の流れる音が聞こえて来るはずでした。

しかし、なんと、ここで自分を待ち受けていた音は、



しゃ~~‥しゃんっ‥





私は固まりました。この音はおかしい。絶対におかしい。だって全然流れている音がしてないもん。これは何か不測の事態が起こっている。しかし、一体何が起こっているのか。分からない。でもこれはやばい。これはやばすぎる。

なぜ、ベテランである自分がここまで焦ったのか。それは、心に刻み付けられた1つのトラウマが理由です。ベテラン勢には、得てしてトラウマが幾つかあるものです。



あれは高校一年生だったと思います。則ち、まだまだルーキーだった時のことです。

急にお腹が痛くなったため、コンビニのトイレを貸してもらいました。そこでしっかりと用を足し、水を流すと、しゃ~~‥しゃんっ‥という、なんとも弱い音が聞こえてきました。恐る恐るトイレの蓋を開けて確認すると、そこには圧倒的な存在感。

自分はパニックになってしまって、もう一度水を流しました。しかし、圧倒的な存在感は変わらない。また水を流しました。だけれども圧倒的な存在感は変わらない。それどころか、だんだんとその存在感が増しているような、そんな錯覚に陥ってしまっていました。

いや、それは錯覚ではなかったのです。トイレが詰まってしまった、ということは、水が上手く流れていかない、ということであり、つまり、水が便器の中に溜まっていく、ということなのです。当時の自分は、ルーキーでした。そこに気がついていませんでした。何回も、何回も水を流しました。どんどん水が溜まっていました。そして、あの惨劇が訪れたのです。皆まで言わずとも分かって下さい。

自分は、怖くなって、逃げてしまいました。全力で走って、逃げてしまいました。泣きながら、逃げてしまいました。

泣きたいのは店員さんですよね。自分なら絶対に嫌ですもん。というか、できないです。自分がコンビにの店員さんで、そのような凄惨たるトイレを掃除しろ、と言われたら、もう辞めます。無理です。だからこそ、辛かったのです。申し訳無さ過ぎて、辛かったのです。

家に帰ってからも、もしかしたら自分は付けられていて、あの店員さんに家がバレてしまっているのではないだろうか、仕返しにくるのではないだろうか、と、一週間程震えて過ごしました。あの時のコンビニの店員さん、本当にごめんなさい。



私には、このようなトラウマがあったのです。だからこそ、またもや「しゃ~~‥しゃんっ‥」という音を聞いた時、あの時のトラウマがフラッシュバックしてきたのです。だけれども、今の自分はもうルーキーではありません。ベテランです。ベテラン勢です。

まずは、事態の把握が優先です。恐る恐る便器の蓋を開けてみると、やはりそこには圧倒的な存在感。

あの時のトラウマが蘇り、泣き出しそうになりながら、もう一度水を流してみることにしました。すると、やはり流れない。

ここでまた沢山水を流すと、あの時の惨劇の繰り返しとなってしまいます。そのため、周りにスッポン的なものが無いか探したのですが、全く見当たらない。


終わりです。詰みです。成す術がありません。


そして、結論から言えば、自分は、またもや逃げ出してしまいました。

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。



自分は、どうすればよかったのでしょうか。店員さんに報告するべきだったのでしょうか。でも、そんなことできますか?あの、すみません、うんこ詰まっちゃったんですけど、って言えますか?もし言ったとすると、多分現場検証が始まりますよね。自分の目の前で、他人に自分の圧倒的な存在感を見られることを容認できますか?自分は、どうすればよかったのでしょうか。


トイレから脱出する時、もしも人が並んでいたら、もうそこでアウトでした。即バレていた訳ですからね。しかし、この時、店内の人は少なかったのです。だからこそ、人が並んでいないことに賭けて、脱出し、直ぐさま料金を払い、店を後にしました。


しかし、救われたのは自分だけであります。いや、自分も救われていません。罪悪感が半端ではないのです。本当に辛いのです。まさに、絶望であります。もう嫌です。辛いです。ごめんなさい‥。


より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。

たしかに、「善い」の定義はありません。しかしながら、「善い」の中に入らないものを見つけることはできます。

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。



本当にごめんなさい‥。ごめんなさい‥。ごめんなさい‥。












おわり



# by hayashihiromu | 2014-10-05 02:06 | 普通

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ダウンタウンさん、高須光聖さん、板尾創路さんを心から尊敬しております。

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