ヘンリーヘンリーズのギター担当。


by hayashihiromu

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バーバー・歯


親知らずを抜いたのは一ヶ月程前のことだったと思います。今ではすっかり歯の痛みも無くなりましたが、未だに下の歯茎に大きな穴が空いております。

そもそも親知らずに痛みを感じていた訳ではなかったのですが、以前書いたように、完全に親知らずの部分がヤンキーの溜まり場になっておりまして、親知らずの成長と共に、増々歯間ブラシという名の警察をパトロールさせる隙間がなくなり、どんどんどんどんヤンキーは増え、そして力を蓄えている感じがしたので、このままだとヤンキーが暴れに暴れて虫歯になってしまう可能性があるのではないか、と怖くて怖くて夜も眠れなくなっていたため、歯医者さんの門を叩いたのでありました。

近所の歯医者さんでレントゲンを取ってもらうと、どうやら神経近くまで親知らずが発達していたらしく、自分がやるのは怖いから大学病院でやってくれ、と言われ、その日にそのまま紹介状を握りしめて今度は歯科大学病院へ。受付を済ました後に通されたのは、まるで美容院のような診察室。どういうことかといいますと、広めの部屋に診察椅子がぶわーーーーっと並んでいまして、その各椅子毎に若いお兄ちゃんが笑顔で立ってあれやこれやし、色々なおっさんが部屋をうろちょろしていたのです。さらにこのおっさん達、全員が全員仕事をしている訳でもなく、特におっさんAは暇そうに色んな処置中の患者さんの所に行っては「おぉ〜」みたいな感じで見ておりましてもう一体なんなんだこの部屋は!!!!

自分の歯医者、いや、病院のイメージは、個室に患者さんが呼ばれて、そこで診察し、処置をするものであるとのものであったため、一応椅子と椅子の間に仕切りはあるものの、人の体を処置するに不似合いな、この美容院のようなプライバシーの欠片もない、流れ作業的な現場、若干家畜感の漂う病室に面食らってしまいました。いやまあしかし一つの病室に全てを集中させることは中々合理性のあるシステムであることは認めますが、悲しいかな、人間は合理性を追求して発展してきたのにも関わらず、合理性を追求した果てには、このような原始的とでもいいますか、荒い、前時代的な様相を帯びる状況を誕生させてしまっているのです。某北欧企業の家具チェーン店のご飯食べるところとかもね。生活に合理性を求めるほど、感覚は退行していくのかもしれません。

なんてことを考えている内に、研修生っぽい若いお兄ちゃんに病状の説明やらなんやらを終え、気付けば今この場で抜いちゃうことに。周りはすごいガヤガヤしていて両隣、前後には普通に他の患者さんがおり、おっさんや患者さんがうろちょろしているこの状況で歯を抜いていくことに。デリカシーの無さに閉口していても仕方なく、口を大きく開けて待っていると、さっきまで暇そうに部屋をうろちょろしていたおっさんAが、「あ、抜いちゃう?じゃあ俺抜くよ」とあっさり自分の横にきて器具を取り出し準備を始めました。

いやいやいやちょっと待ってくれおっさんあんたずっとこの部屋の中を暇そうにうろちょろしていただけじゃないか。大丈夫なの?おっさん大丈夫なの?信じていいの?信じていいの?と若干パニクっていた所、これから口の中をギュイーンとやられる単純な恐怖、アウトレイジのあのシーンの想起、それらも相俟って、勝手に手がぷるぷる震えていたらしく、「ははは、緊張しないでよもう〜」とおっさんAが励ましてくれたのですが、間髪入れずに「あ、明日からめっちゃ腫れるから。想像の10倍は腫れるから(爆笑)」となぜか笑いながら自分のことを脅してきてもうやっぱりこのおっさんやばいやばい無理無理と思ったのですが、「チェンジで」とはさすがに言えるはずもなく、神に祈りながら麻酔の注射を受けました。

「じゃあいきまーす」
との気の抜けたかけ声と同時にギュイーンが始まった訳ですが、あ、あれ、本当に痛くない。何も感じない。あ、これはいいですね〜と麻酔の凄さを改めて実感し感動し安堵していると、なんだかそれが安心感へと変わり、若干テンションまで上がってきてしまっていました。

麻酔の凄さ以外に特にこれといった感想もなく淡々と口を大きく空けながらぼけーっとしていると、

「ちょっとこれ回転数足りなくない?なんかしょぼくない?」
「あ、でしたらそちらの方を使ってみては…」
「あ、これ?これなの?これかよも〜。じゃあこっち使うよ。ん?あれ?これも回転数なんか違うわ。ちょっといい感じの回転数じゃないわ。もうちょい回転数高めのやつ無いの?」
「えっと、それなら、あそこにあるのが一番強いやつですけど」
「あ、これ?こっちなの?じゃあこっち使うわ」

とのような会話が頭上を飛び交った次の瞬間、


ギュォワーーーーーーーーーン



ははは。え。え?これいれるの?これ口の中に入れるの?無理じゃない?音おかしくない?今まで聞いたことないよ?あれ?あれ?

「いいわ。この回転数いいわ。これでいくわ」

いやいや、聞いたこと無いって。そんな金属高速回転の音。やばいって。絶対ダメだって!とは思ったものの、口に出すことができない臆病者の自分は、迫って来る未知の回転数に怯えていると、あれ、あれれれ、やっぱ麻酔すごいわ〜何にも感じないわ〜とこと無きを得たのでありますが、

「やっぱ違うわ。回転数いい感じじゃないわ。もうこれより強いの無いんだよね?じゃあこれでいいよもう」

とおっさんAは若干ふて腐れてしまい、その後の処置が続いたのであります。



その後は至って順調。何回か歯が摩擦で焦げてる感じのにおいがやばすぎて吐きそうになったくらいで、痛みはまったくありませんでした。ただ、最後に「ちょっと圧がかかるよ〜。ごめんね〜」といいながらペンチ的なのを口に突っ込んだと思ったら、顔面を椅子の背もたれにめり込ませることが目的なんじゃないの?と思う程力任せに顔面を抑えられ、歯を抜きました。これだけ科学技術が発展しても、最後はやはり原始的な感じなんですね。


処置が終わったあと、「じゃあ縫うのは任せるわ〜」と研修生に言い残し、おっさんAはどこかへ行ってしまいました。研修生の処置に不安を覚えながらも、難なく縫い合わせてもらい、おわったぁ〜と体を起こしたらさっきのおっさんAはまた暇そうに部屋中をふらついておりました。何者なんだこのおっさん。なんか職人っぽくてかっこいいぞおっさん。ありがとうおっさん。さようならおっさん。



まだ逆側の親知らずも横向きに生えているらしく、またこの病院には御世話になるだろうと思います。
ちなみに、「アホみたいに腫れるから(爆笑)」とおっさんAは言っていたのですが、その後痛むことはあれど腫れることは一切なく、やっぱりあのおっさんAは凄い腕の持ち主なのだな〜と思いました。あらためて、ありがとう〜と思いました。ちゃんちゃん。







おわり




by hayashihiromu | 2015-03-25 20:40 | 普通

すいぞくかんっ


この一ヶ月、かなり濃密な毎日を過ごしていました。
3年ぶり3回目の胃腸炎でぶっ倒れたり、親知らずを抜いたり、ゼミの課題に追われたり。その代わり、月並みな言葉ですが、成長、というものを少し実感した気がします。


話しは変わりまして、この前1人で水族館に行ってきました。
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にも〜。

2月の初旬くらいはかなり暇を持て余していたので、ここはひとつどこへ行こうかしら、と思ったところ、ふと頭の中に水族館がよぎったのです。




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この臨場感ね。臨場感がすごいよ。圧が半端じゃないね。他の生物が発する圧をね、それも、非日常の生物が発する圧は凄まじいものがあります。このよくわからない小さい生物の前でも、ものすごい圧を感じたのですが、たっぱは自分の方がある訳ですからね、ここで負けたら人類の恥だと思いなんとか耐え忍び写真をぱしゃりとしましたよ。


海にはおもしろい生物がたくさんいますね。1人で見ていても全然飽きません。
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この魚とかね。必死感がすごいよね。こいつ、この長いヒゲを取ったらただのうんこみたいなどこにでもいる魚ですから。きっと、だから必死でヒゲを伸ばしてアピールした結果、水族館にも堂々デビューさせてもらえる程成長したんでしょうね。

しかもですよ、この魚、名前がパラダイススレッドフィンっていうですよ。パラダイススレッドフィンって。自分がただの魚だということによほどコンプレックスがあったんでしょうね。ヒゲを長くしただけじゃ不安だったんでしょう。名前どうする?名前どうするよ?ってね。とある日の夜の会議室ですよ。俺らとりあえずめっちゃヒゲ長くしてみたけどこれだけじゃ足りなくね?いやいや、これ以上どこ発達させればいいのよ。それは詰め込み過ぎでしょ。あ、じゃあ名前をもっとかっこよくしたらいいんじゃない?うーん例えば?いや、ほら、なんかさ、横文字でさ、ほら、パラダイス的なさ。うわぁパラダイスって。めっちゃかっこいいじゃん何それお前やっぱすごいわ〜。

ね〜。堂々デビューできてよかったですよ。



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はぁ〜この臨場感。かっこいい。


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うわあもうこの臨場感たるや。何よこれ。何なの。



生命っていいですよね〜。生命の圧を浴びに今度はまたおっきな水族館に行こーっと。









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ぴちょカワってなに













おわり




by hayashihiromu | 2015-03-22 22:06 | 普通

『鬼が来た!』


ストーリー
第二次世界大戦下の1945年。中国華北地方の万里の長城にほど近い、大河に面した村。村には日本海軍の小部隊が駐留していた。村に住む青年・馬大三の元に、夜半突然1人の男が現れ、馬に拳銃を突きつけながら二つの麻袋を預かるようにと脅して去っていった。その麻袋には日本陸軍兵と中国人の通訳が入っていた。村から日本海軍の宿営地までは程近く、日本陸軍の兵士も徴発のために村に出入りしている。日本兵を捕らえていると知られると村人達の命が危ない。日本兵と中国人の、奇妙な友情と悲劇を描く。(Wikipedia)




久しぶりに映画を見ました。衝撃的でした。『鬼が来た!』は2000年に制作された中国映画で、カンヌ国際映画祭で賞を取っている作品です。主役級の日本兵は香川照之さんが演じられております。

この映画は、松本人志さんの映画評論集『シネマ坊主』の中で絶賛されていた数少ない作品でして、それ故、高校生の頃に見ようと思ったことがあったのですが、如何せん白黒映画で音もたまに割れてるし撮り方もなんだか古い感じだしなんかもういいや、と序盤で断念してしまっていました。それをまた改めて見たのですが、いやはや、とんでもない映画ですねこれは。

時代は第二次世界大戦時、日本軍に占領されていた中国の貧しい村での話しです。突然「私」としか名乗らない謎の男が、麻袋に詰められた香川照之氏演じる日本兵と中国人の通訳者を連れてきます。そして5日間日本兵にバレないように監禁し、尋問しておけ、とだけ言い残して去っていくのです。しかしその謎の男は5日を過ぎても一向に現れる気配がありません。香川照之氏演じる捕虜日本兵が「俺を殺せーー!!」と怒鳴り続けるものの、この日本兵を殺してしまえば、今度は謎の男に殺されるかもしれない。村人はどうしたらいいか分からず、仕方なくかくまい続ける訳です。しかし、時が経つにつれ、そのうち日本兵と中国人の村人の間で心の交流がなされていき、、、という話しですね。

もちろんそれだけで終わる訳ではなく、この後大きな凄まじい展開が何回かあります。すーさまじい展開が何回かあります。

中国や韓国、又はアメリカが日本軍を題材にした作品を作る時、どうしても反日プロパガンダ的というか、理不尽なまでに日本人が絶対悪で、野蛮で、気分の悪い存在として描かれることになるのが常ですが、この映画は少し違います。

香川照之氏以外にも日本兵は沢山でてくるのですが、たしかに、映画に出て来る日本兵は見ていて腹が立ちます。中国人を見下し、横暴に振る舞い、老人や子供を殺すシーンまでもあります。しかしながら、その描き方がプロパガンダ的ではないのです。すなわち、単なる悪の権化としての日本兵ではなく、情緒を持った日本兵なのです。理由なく暴虐的な態度を取るのではなく、そこには理由がある。戦争という特異な状況、集団心理、移り変わる規範、そのようなものが、人を「鬼」にさせるのだ、ということがテーマなのです。中国人の子供を可愛がり、毎日飴をあげたり、手品をして遊んだりしていた日本軍の将校が、一瞬の場の変化でその子供を殺す映画なのです。感情が壊れて「鬼」になる瞬間を提示している映画なのです。

だからこそ、この映画では日本人だけでなく、中国人も「鬼」になります。そのため、この映画は中国で上映禁止になったらしいですね。

この映画で特出するべきところはストーリーや演出だけでなく、香川照之氏の演技です。ちょっと言葉にできない。凄すぎる。当時の日本兵が持っていたであろう、岸田国士曰く「畸形的」な歪んだ自尊心、傲慢さ、下品さ、純粋さ、生と死の感覚、それらが演技の節々から滲み出ています。
陸軍将校さんの演技もすごかったな〜。アウトレイジの椎名桔平さん並のかっこよさ。超こわい。その人が画面に出て来るだけで、緊張感が生まれる。特に、宴会で中国人の村人に酔っぱらって肩ぽんぽんしたり頭なでなでされている時の笑顔がグッときますね。怖すぎて呼吸止まりそうになるもん。アウトレイジの中華屋さんでにやにやしてる椎名桔平さん並の高ポイントです。



レビューでもなんでもないですが、とにかく衝撃的だったので、ぶわっとかたかたした次第であります。







おわり







by hayashihiromu | 2015-02-14 21:02 | 普通

Feu de camp


今日で長かった試験期間が終了…。
いやー今までで一番大変でした。辛かった…。
でもですね、これでやっとフランス語とおさらばできるというね、もうそれが嬉しくて嬉しくて。あとで早速フランス語の教科書を燃やそうと思います。

少し時間ができたので、何かしたいですね〜。といってもねー。
見たい映画も特に無いし、信長の野望はやりつくしちゃったし、活字からは一旦離れたいし、うーん。
このままだと気付いたら1週間くらい経ってそうでやばい。どうしよう。ふーむ。

ふむふむふむふむふむふむふむふむ。


とりあえずフランス語の教科書を燃やしながら1人でキャンプファイヤーでもしようかなうんうん。
キャンプファイヤーと言ったらなんだろう。薫製とかだよね。フランス語のプリントでチーズとか薫製しようかな。あとなんだろう。あれだ、いい感じに燃えるようにフランス語の教科書を段々に組まなきゃだめだよね。いいねいいね。他には、まあ、ミルクせんべいは欠かせないよね。おっと、これはテンション上がってきたよ。あとは何かな。あ、アコギ?アコギで弾き語り?おお〜元気な大学生っぽいねこれは凄まじいねいいね。あ、しかも俺丁度ギター弾ける!これはいいよ!!曲のチョイスどうしよっかな〜。やっぱりね、テーマはフランス語との決別だからね。決別っぽい曲を選ばないとね。っていうか、え、あれ、改めて、これ、1人でキャンプファイヤーって絶対いいよね。なんか想像しただけでさらにテンション上がってくるねこれ。これはいい。発見した。発見してしまった。忙しくなるぞ〜!!!











おわり





by hayashihiromu | 2015-01-30 01:13 | 普通

2015年、悲劇の誕生

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明けましておめでとうございます。この2枚が今年の年賀状です。

何人かからこの絵の意味がよく分からない、との問い合わせがあったので、野暮だとは思いますが少し説明させて頂きます。
1枚目は、馬さんがUFOに連れ去られてしまっている時に、たまたま下からこっちの方ををあぁ…って感じで見ていた羊さんを発見し、自分はもうこれからUFOに連れ去られてしまうから、後は君に頼んだよ、よろしくね、と言い、羊くんがそれを了承している場面です。
それを踏まえて、2枚目で羊くんが、馬さんはもういなくなってしまったけれど、今年は自分が引き受けるから、大丈夫だよ、だから今年もよろしくお願いしますね、と言っている訳です。羊くんもね、自分の未来の予想はある程度ついているのです。馬くんの末路を見ていますから。だからこそ、あえて何も考えず、のほほんと生きよう、と心の中で硬く決意しているのです。彼は。この羊くんの表情は、そういう表情なのです。

だからこそね、今年1年間、我々もしっかり生きなければいけません。羊くんの気持ちを心から考え、そして馬さんに思いを馳せ、しかしそれを背中で受け止め、羊くんのこと、馬さんのことを決して振り返ることなく、前を向きながら、精一杯生きていかなければいけません。

ということでね、今年もどうぞよろしくお願いします。




そんなこんなで2015年が始まった訳ですけれども、いやはや何とも時が経つのはこんなにも早いものかと今更ながら恐怖で戦慄いているところです。去年もしんどかった思い出がほとんどですねー。なんだか髪の量が減った気がしますよ。
今年もがんばろーっと。

ライブを行ったのは一週間程前でしたか。来て頂いた皆様ありがとうございました。出演して頂いた方々にも感謝を申し上げます。やっぱり弾き語りっていいですね〜。こっけさんのライブで何だか途中泣きそうになりました。本当にありがとうございました!

そしてこの前成人式が終わりました。といってもですね、自分は少し離れた小学校に通っていたため、地元での交流が存在せず、したがって成人式には行かなかったです。自分の地域の成人式に行っても、ただただ現場で1人で立ち尽くすという惨劇を巻き起こしてしまうだけですから。悲惨ですよ。周りがやんややんや騒いでいるところでね、しかも自分の地域はどす黒いエッセンスが少々入っているので、ぶんぶんぶんぶんふぁんふぁんしているところでね、1人で立ち尽くして「あ…」ってなってたらもう自分で自分を見てられないですよ。悲しみの極地ですよ。ただの悲劇ですよ。

ただ、まあね、別に行ってもよかったんですよ?悲劇が起こったっていいじゃないですか。歌い出してもいいじゃないですか。ニーチェはギリシャ悲劇こそ、意思そのものから生じる音楽と現象の橋渡しをするものであると述べました。ぶんぶんふぁんふぁんきゃぴきゃぴそんそんぱんぱん言ってるソクラテス的楽天主義なんかクソ喰らえですよ。科学の認識による慰めが限界に達している現代社会においてやはり芸術の回帰こそが絶対的に必要であるわけでね、すなわちギリシャ悲劇が必要な訳でね、だからこそね、成人式のあの会場で悲劇を展開させることはこの世界にとって意味のあることであった訳で、ともすると世界の救世主になりかけていた訳で、ニーチェさん、ツァラトゥストラはマジで意味分かんなかったけど、っていうかただのトチ狂ったおっさんでしょツァラトゥストラって、ってことは置いといて、2015年の新年早々めでたいめでたい成人式の会場でただただ1人立ち尽くし、時たま「さむ〜」「意外と混んでるな〜」「ふひっ…」と1人で喋りながら、必死に孤独じゃないですよ1人じゃないですよ気にしてないですよ友達は向こうの方にいますよ感を滲み出す状況がまさに意思そのものの現象である訳で、目に見える固体の憐れみの極地である訳で、すなわちここで歌い始めたら瞬く間に悲劇となる、そのような状況が揃っているんですよ!舞台は整っているんですよ!あなたの無念は自分が晴らしますよ!


まあ行かなかったんですけどね。










ただ、夜に中学の同窓会みたいなのがあったので、そこには行ったんですけれども、なんだか感慨深かったですね。でも、色々とお腹いっぱいになっちゃいました。昔の人達に埋め尽くされると、意識無意識に関わらず、昔に戻ってしまうのでしょうかね。自分は大人の方がいいです。

そんなことより試験試験。今回の試験であの忌々しいフランス語とはお別れです。がんばろーっと。























おわり








by hayashihiromu | 2015-01-14 23:42 | 普通

寒灯


一気に寒くなってしまいましたね。今日の夜は寒すぎて少し泣いてしまいました。
家に帰り自分の部屋に居ると、本棚に入りきらなくなって棚の上に積んでいた本が頭に向かって崩れてきました。痛すぎて少し泣いてしまいました。

信長の野望の最新作が先週発売されました。面白いです。会戦に自由度が生まれてすごい楽しいです。大会戦は戦いに名前も付くしめっちゃいいです。片翼に羽柴秀長隊と柴田勝家隊、もう片方に前田利益隊、中央に羽柴秀吉軍と滝川一益軍、本軍織田信長がいいですね。まずは自軍の両翼で突進を仕掛けて相手の両翼の戦線を下げさせ、羽柴秀吉軍で相手の中央軍を引き付けます。片翼は羽柴秀長隊で引きつけたところで、柴田勝家隊が離脱しながら相手本陣の横っ腹に向けて迂回開始。もう片方は前田利益隊に大暴れしてもらっているうちに滝川一益軍が相手中央軍の横っ腹に付け、矢を打ちまくる。

ある程度中央軍の戦力を削いだら、秀吉軍が片方に開きながら乱戦に持ち込み、片翼を一手に引き受けボロボロになった前田隊に特攻してもらい、その隙に滝川軍を相手の本陣を包囲殲滅するべく裏に回らせる。すると信長の本軍と相手の本陣の間に道が出来るため、恐れずに前進。後は敵本陣の横につけた柴田隊に突撃からの乱戦を起こしてもらい、信長本軍は一斉射撃。少し遅れて滝川軍が退路を断ちながら射撃し、殲滅戦終了。

たまにタイミングが遅れたり、前田隊が壊滅したり暴走したりすると負けてしまうこともあるのですが、基本的に国を左右する決戦ではこのようにして戦っていました。他にも、小隊に佐々成政や不破光治を使ったりもしてましたね。ただね、相手の本陣を殲滅する頃には羽柴秀長隊は壊滅、羽柴秀吉隊も瀕死状態と、羽柴兄弟にはいつも血を沢山流させてしまっていて非常に申し訳ないです。前田利益に至っては特攻させてますからね。心が痛いです。

ただね、後半になったらもう彼らは方面軍の軍団長として全員活躍してもらっていましたから。しっかりと方面軍作れるのがいいですねこの作品。上洛するまで一緒に戦ってきた仲間に各地方の軍団を任せると、なんだか胸に来るものがあります。関東の北条に滝川一益、北陸の上杉に柴田勝家、中国地方に羽柴秀吉、四国に羽柴秀長、細かい前線地帯には前田利益。よく働いてくれました。おかげで1570年代には天下統一できましたから。たくさん恩賞を与えないと!


そんなこんなで天下を統一すると、自分は一体何をやっていたんだと若干落ち込んでしまうのが常であります。そして今は年の瀬であり、試験も近く、入ゼミ課題や試験もあり、だめだだめだ、心を入れ替えてしっかり勉強をしよう、と思えば、硬く無機質な本が頭に降って来るのでございます。

床や机に散らばった本を眺めていると、つい先程までその確固たる物質性と直面していたのにも関わらず、無造作に開かれたそれらからは、芒洋とした湯気がふわふわ浮いているような気がしました。ああ、そういえばこの本まだ読んでいなかったな、という言葉が、かたい空気の中で、ゆるりゆるりと揺れていました。









おわり






by hayashihiromu | 2014-12-17 02:08 | 普通

三田祭②〜女子大生に、出兵間際に告白されて〜





イケメンに壁ドンされてドキドキした後、三田祭で最早名物化しているようにも思える、200円払えば女子大生に告白される、という企画に行ってみました。500円払うと3人から告白されるということなのですが、まあ自分はそんなふしだらな人間ではないので200円を受付で払いました。すると、自分が呼んで欲しい名前、女の子の年齢設定、希望するシチュエーションを書く紙を渡される訳です。

シチュエーションは何でも好きなものを自由に設定していい、という素晴らしい企画。例えば「放課後」だとかですよね。色々ありますよ。自分はというと、「戦場」か「出兵」で迷ったのですが、ここはやはり誰しもが一度は言われてみたい「生きて…生きて帰ってきてね…!」という言葉が欲しくて「出兵」と書いちゃいました。来年は「戦場」かな。

どうやら演劇サークルの企画らしく、マジな演技をしてくる、という情報だったので、ここで自分が恥ずかしがったり、妙な照れを入れてしまっては相手にも失礼ですし、成立しないですし、そもそも自分はそんなしょうもない人間にはなりたくないので、ここは本意気で臨もうと思い、集中して待っていました。


自分の番がくると、カーテンで仕切られた個室に案内されます。そこでドキドキしながら待っていると、突然、「はやしくん!」と女の子が飛び込んできました。

「本当に、行くんだね…」

おお、いきなりですね、と若干面食らいつつも、今のこの状況をもう一度整理。

自分と相手の女の子に与えられている情報は、自分が「林」という名字で、年齢設定は同い年で、そして状況は出兵の別れ際だ、ということだけです。そして、ここからはただただこのカーテンで仕切られた空間の中で、誰に見せる訳でもなく、2人だけで1つの場面をアドリブで完成させなければならないということです。これはすごいことですよ。

ことの重大さに気づき、このままではやばい、照れてしまう!と思い、早急に細かい設定を脳内で作成しました。


時は1944年冬。とうとう徴兵される日が来ました。メディアが発信する情報には、玉砕の文字が日々踊っています。最早劣勢なのは疑い用がありません。だけれども、自分は行くのです。

結局一睡も出来なかった自分は、なんとなく、もう一度自分の町を見てみたくなり、早朝に外に出て歩いていました。多分もう、この町を見ることもない。御国のために命を捧げる。本望じゃないか。親兄弟も喜んでくれるさ。先に靖国へ行った学友達のもとへ行けるんだ。何も悲しいことはない。何も寂しいことはない。天皇陛下のために、御国のために、国民のために、そして、なにより、あの子が生きていけるこの国の未来のために。

気付けば、あの子の家の前に立っていました。まだ薄暗い早朝です。自分を出迎えてくれたのは、あの子の家の軒先で飼われている犬の寝顔だけでした。最後に、お別れの言葉を言いたかった。いや、言わなくていいんだ。自分は日本男児。靖国で、いつまでも見守っているのだから、それでいいんだ。

まだ暗い窓に向かって、静かに敬礼。ゆっくり背を向け、そのままその場を離れようとした、そのとき、

「はやしくん!」

「本当に、行くんだね…」

まさか。こんな奇跡などあるものか。いや、ちがう、きっとあの子も、起きていたのだろう。家の前の人影に気付いたのだろう。これは神さまがくれた時間だ。

ゆっくり振り返ると、そこには常に思いを寄せていた人、その人がいました。

「生まれたときから、ずっと、一緒だったよね…。小さい頃から、隣の家でさ、いつも一緒に遊んで、勉強して…」

あ、なるほど、これは幼馴染の設定でいく感じなのね。自分としては結構町を徘徊して辿り着いた感じだったんだけど、まあ、いいや、と、早急に脳内で設定を組み替え。

するとなんだか余計に悲しくなり、目を細め、俯いてしまう。

「なんだか、はやしくんが側にいない生活なんて、考えられないや…」

自分は何も言えずに、ただただ俯いていました。だけれども、言わなければならない。これは、自分から言わなければならいのだ。神様がくれた時間だ。生きて帰ってきたら…。もし、生きて帰ってきたら………。それまで、待っていてくれますか?と。

意を決して顔を上げた、その時。

「だけど、本当に行っちゃうんだね…。日本に出兵しちゃうんだね…」

そうそう日本に、、、ん?
ん?




ん?





日本に出兵?



ここで一瞬思わずちょっと吹き出してしまったのですが、ここでも早急に設定を組み直し、ああ、この自分の幼馴染はちょっと頭の弱い子なんだな、だめだぞ、自分だからいいようなものの、人前でそんな間違えしたら非国民になっちゃうぞ、も〜、やれやれ、ってな感じで

「日本から行くんだよ」

と、さっきまで漂っていた悲しい空気を断ち切るように、若干笑いながら喋ると、

「何言ってるの!」

と言われ、あれ?あれ?なに?なんなの?これはどういう設定なの?と首を傾げていると、なんだか目の前の幼馴染が、自らの服装をものすごい勢いアピールしてきたのでちゃんと服を見てみると目に飛び込んできたのはチャイナドレス。




チャイナドレス。



幼馴染が来ていたのは、チャイナドレス。




チャイナ、ドレス。








チャイナドレス=中国



中国から出兵=人民解放軍



日本に出兵=日本に侵略





「え、えっと、あの、そういう…?」

「これから日本に出兵しに行くんじゃない!」




あ、あ〜…そういう設定だったのか〜…自分はちょっと勘違いしてたかな〜…あ、日本鬼子をぶっ殺しに行く的な、漁船に乗ってサンゴ取りに行く的な、人海戦術で突撃的な、そんな感じだったのね〜…う〜んこれはね〜あの〜、えーっと、え、え、え、うん、え、俺中国人だったの?設定中国人だったの??嘘でしょ??なにそれなにそれ怖い知らない聞いてないやめて設定全部飛んだよ今までの設定なんだったんだよ返してよ俺の入り込んだ世界を返してよもうとんでもない設定ぶっ込んできちゃったよもうなにそれ?自分の自己を措定していた第三者則ち神が目の前で撲殺されているとことを見ている気分ですよ。本当にもうやめてよ俺の神様いなくなっちゃったよ。いなくなっちゃったということは無精神状態に陥ったということであり則ち絶望の終わりの無い循環に落とし込められた訳ですからもう最悪ですよなにこれなにこれ。

とにかく…絶対生きて帰ってきてね…帰ってきたら、私と付き合ってくれる…?とかなんとか言ってましたけど、最早自分の耳には何も入ってこないですよそんなもんね、もうね、おれ人民解放軍だったのかよ!人民解放軍だったのかよ!もう一度言いますよ、人民解放軍だったのかよ!

一応、あ、はい、と言ってね、敬礼だけはしておいたんですけれども、もう完全に自分の世界が終演してしまっていましたから。アイデンティティの崩壊が起こっていますから。神様撲殺されてしまっていますから。もうなんなんだこれ!!と思っていたらさっきまで目の前にいた幼馴染がいきなりただの女子大生になって「はい終わりです〜」と部屋からさっさと出された訳で、これまた完全に冷めた感じで言われてしまった訳で、心に傷を残しながら、夜の三田に出兵していったのでございました。






という感じでね、まあ、よくやりますよね。すごい企画ですね。でも中々楽しかったです。来年は「戦場」のシチュエーションで行こうかな!是非皆で戦場のシチュエーションで行きましょう!!








おわり







by hayashihiromu | 2014-11-25 22:37 | 普通

三田祭①〜イケメンさんに壁ドンされて〜


今年も三田祭が終了しました。
自分は辯論部という福澤諭吉先生が創設した日本最古のサークルに入っているのですが、今年の三田祭ではその辯論部で中国に関する講演会を主催しました。

去年は片山杜秀教授をお招きして、また、自分も登壇させて頂き、「国の死に方」というテーマで論議を交わさせていただいたのですが、(片山杜秀教授との公開討論会『国の死に方〜戦前日本と現在〜』①安倍政権の意図②天皇制の変遷+山本議員手紙問題)今年は特に登壇することもなく、ポスター作りとチラシを配ることに全力を尽くしました。

ポスターはと言いますと、クソみたいなド素人の割には中々いい感じのものを仕上げることができましてうんうん満足。Twitterに載せたあれですね。

チラシ配りに関しては、去年はですね、大混雑の人ごみの中、口から「あ…」という言葉をたまに零しながらチラシを抱えて延々ただただ立ち尽くし、結局1枚のチラシも配れなかったという悲劇が発生してしまっていたのですが、そのリベンジマッチといいましょうか、今年は頑張って5枚もチラシを配ることができましたようれしい。

そんなこんなで講演会が無事に終わると、学園祭を満喫するために雑踏の中に繰り出しました。去年は、ドランプの大富豪で勝ち抜いたら商品を貰える、という企画に友達と2人で参加し、あっさり一回戦で負けてそのまま家に帰っただけだったので、今年は満喫するべく色々探っていると、なんやかんやで「慶應が誇るイケメンがタロット占いの結果を壁ドンで伝えます」という企画に行くことに。まあこれは行くよね。

様々な種類の女性で埋め尽くされた大行列に30分ほど並んだところでとうとう自分達の番。しかしまだこの段階では、正直イケメンと言ってもたかがしれてる、どうせなよなよしてたり髪型で誤摩化してるだけのゴボウみたいな人ばかりで、椎名桔平さん的な人はいないんだろうな、と舐めた感じでいた訳ですけれども、受付で300円(200円だったけ?)を払っている時に入り口からチラッと見えたイケメンにあれれ??

いやいや違うんだ自分は茶化し半分というか、まあ少し話しの種になればいいかな、的な感じで来ている訳で、別にドキドキするために来ている訳ではないのですから、いや、ね、うん、そもそも自分は大森南朋さんや黒猫チェルシーの澤さんの腕にはときめくけれども、こんな昨今のイケメンには全くもって興味が無かったはずであり、っていうか自分は完全なる男ですから何言ってんのバカじゃないのとぶつぶつ言っている内にいよいよ中に入って自分の担当のイケメンさんがいる席に座りました。

そのイケメンさんは、正直そこまで凄いイケメンという訳ではなかったので、ふん、まあ所詮この程度ですか、さっき入り口から見たイケメンさんには正直イケメン過ぎてビビって思わずビビったという意味でドキドキしてしまったけれども、自分の担当のイケメンさんは大したことないな、うんうん、と余裕をぶっこいていた自分はまだ「イケメン」というものを見くびっていたのでしょう。

自分より1つ年上のそのイケメンさんは、「男の人がお客さんだと緊張するんですよ〜」とハニカミながら喋ってこられて、おお、そういう作戦か、なんだかかわいい人懐っこい感じできて油断させたところでボディーブローを放り込んでくるつもりだな、そんな戦法は効かないもんね!と自分はしっかり脇を締めながら雑談していると、なぜか進路の話しになり、気がつけば凄く会話が弾んでいました。

この企画のコンセプトはタロット占いの結果を壁ドンで伝える、ということだったのですが、心地の良い雑談でいつの間にかガードを下げきって脇を締めるどころかばんざーい!ってしているレベルになっていた自分は、結構マジな悩みを占って欲しい、と自然と頼んでいました。これぞイケメンマジック。

タロットカードを1枚引くと、「分かりました、では立って下さい」と言われ、もう言われるがままに立つと、その瞬間に壁際に追いやられる訳ですよずんずんずんずんずんずんと!そしてさっきまではにかんでいたイケメンさんの顔がすっと真面目になったかと思いきや自分の顔の横をドン!!

え、え、え、と頭が真っ白になっている内にイケメンさんの顔が自分の顔に近づいてきて自分の頬にイケメンさんの頬が当たるか当たらないかのところまで近づいてきて耳元で占いの結果をイケメンな声でわああああああああああぁああぁぁあぁぁぁ…。






今まではですね、アウトレイジの椎名桔平さんや、この前のリーガルハイスペシャルの大森南朋さんみたいな人にときめいていた訳ですけれども、ああ、なんだか昨今のイケメンもいいな、と思った次第であります。すっごくドキドキしてしまいましたよはい。

いや、イケメンというよりね、人に壁を作らない+イケメンのコンビネーションだと思いますね。いやはや、学びましたよ。

しかも耳元ですごいいいこと言ってくれるんですもん。そりゃドキドキしますよ。さすが慶應生ですね。即興であそこまでできるとは、勉強だけじゃないな、と思いましたね。自分も見習わなければ。イケメンさんに。あんなイケメンさんになりたい。






という訳でね、ひとしきりイケメンさんに興奮したあと、今度は打って変わって、200円払えば女子大生に自分の好きなシチュエーションで告白してもらえる、という企画に行ったのですが、そして自分はそこで「出兵」というシチュエーションを頼んだのですが、それはまた今度。







つづく




















by hayashihiromu | 2014-11-25 16:37 | 普通

キルケゴールとニーチェ 『死に至る病』と永劫回帰


キルケゴールとニーチェに共通することは、キリスト教の否定と、キリストの肯定です。異なる点は、絶望に対する解決法です。キルケゴールは真にキリスト教徒であることを提唱したのに対して、ニーチェは絶望の肯定を提唱しました。

では、そもそも絶望とはどういう状態のことなのでしょうか。

キルケゴールは、自己の不均衡が絶望状態であると述べています。
そもそも自己とは、「ある関係それ自身に関係する関係」であるとしています。人間とは、あらゆる関係の綜合です。無限と有限、自由と必然、理想と現実、自分と他人、その他諸々、あらゆる関係の綜合です。しかし、この関係は人間にのみ備わるものではありません。この関係が、この関係自身を意識すること、それが人間であり、自己であります。

この関係がこの関係を意識する時、この自らの関係が正しいのか、それとも正しくないのかを考えます。その時に、必ず必要なものが判断基準です。なにをもって正しい、則ち、関係が均衡状態にあるのかを考えるためには、その均衡状態の規範がなければなりません。キルケゴールは、その規範こそが人間にのみ備わるものであると言います。そしてその規範を精神と呼んでいます。

「人間とは精神である」

これは、キルケゴールの『死に至る病』の冒頭に書かれている言葉です。では、その精神とは何なのか。規範とは何なのか。キルケゴールは、精神のことを神(=キリスト)であると述べています。なぜならば、人間の自己を措定しているのは、その自己自身ではなく、第三者だからです。人間は、自己と決別することができないからこそ、絶望するのです。もし、自己を自己自身で措定しているのであるならば、今の自己が嫌だった場合、別の自己に作り替えることができるはずです。しかし、人間にはそれができない。もう少し具体的にいえば、人は自らの性格、才能、能力とは簡単に決別できない、ということです。その自らの性格、才能、能力が嫌だったとしても、変えることはできない。だからこそ絶望する。したがって、自己は第三者によって規定されているものなのだ、とキルケゴールは考えた訳です。

だからこそ、人間には、普遍的で永遠的な規範、則ち神が備わっており、その規範と照らし合わせることで、人間は自らの生が正しいのか正しくないのかを判断できるのです。規範と対面した時に自らの状態が不均衡であれば、それを均衡状態にするように努力するからです。


基本的に、人間が生きていく上で、様々な関係が自然と均衡状態になることはありません。生きている中で、かならずどこかで不均衡状態に陥ります。その不均衡状態を埋めるための手助けが、規範です。規範が無いと、自分が不均衡状態であったとしてもそれを認識することはできないばかりか、不均衡を均衡へと変化させることができません。なぜなら、どこがどのように不均衡であるかが分からないからです。

そのため、規範を失った人は「地上的なもの」を求めます。物やお金、地位、名声、情報、他人を闇雲に求めます。デタラメにひたすらそれらを求めるおかげで、一時は自らの不均衡状態を忘れることができます。誤摩化すことが出来ます。しかし、不均衡であることには変わりがありません。

この状態を、キルケゴールは「絶望の第一形態」と呼んでいます。絶望している(不均衡状態に陥っている)のにも関わらず、それに気付いていない。気付いていないということは、自己を認識していないということ。自己を認識していないということは、主体性もクソも無いということ。そのため、世の中にフラフラ流される。人の意見にフラフラ流される。「地上的なもの」に価値を置き、闇雲に必死にひたすらにそれらを求め続ける。

すると、すぐに「絶望の第二形態」が訪れます。それは、その「地上的なもの」が失われたときです。大切な物を失った時、お金を失った時、地位を失った時、友達を失った時、恋人を失った時です。それらがあるおかげで自らの様々な関係が不均衡であることを隠していたのに、それが欠けた途端、その不均衡が目の前に現れます。

人間は、「地上的なもの」が失われた時に絶望を感じます。しかし、キルケゴールに言わせればそれ自体は絶望ではないのです。自己の関係が不均衡状態に陥り、そしてそれを意識していないこと、それを「絶望」であると述べているのです。具体的に、4つの例を挙げています。

1つ目は、自己の関係が無限性に偏っている、「無限性の絶望」です。これは、感情や認識、意思が想像的なものとなり、延いては自己が想像的なものとなることです。価値の無いものに多大な価値を置くことです。例えとしては、「宗教への単なる陶酔」が挙げられています。

2つ目は、「有限性の絶望」です。これは、社会で生きるために個性を没落させることです。地上的なものを手に入れるために、自己を省みないことです。そのため、社会の中では、「地上的なもの」、その意味で成功するでしょう。しかし、そこに自己はありません。

3つ目は、「可能性の絶望」です。これは、本当の自己自身を見ないで、空想的な自己自身を見ている状態です。人は、この状態に陥っている人を、「非現実的な人間」であると言います。砕けた言い方をするならば、「俺はすごいからなんでもできるぞ!」と根拠なく考え、そのように生きている人のことを言います。その人自身の自己では成し得ないことを、空想的にできると考えているのです。

4つ目は、「必然性の絶望」です。これは、信じることをやめた人間です。いかなる苦境に陥ったとしても、信じる心があれば、どこまでも努力できます。それをせず、すべての状況を諦観的に捉える場合のことです。


自己が不均衡状態になると、これらの「絶望」が出てきます。そして、これらの絶望状態にあり、それを反省するための精神が無い時、人は「地上的なもの」などに価値を置き、齟齬をきたしている自己を覆い隠すのです。そして、自らが大きな価値を置いているものが失われた時、人は「自分は今絶望している」と思います。この時に本来的な自己を認識することができるのならば「絶望」から抜けだせることができるのですが、人はそうしません。現状の自己を認めたくないのです。

キルケゴールの「絶望」ではない絶望状態に陥った人間の考えることとは、古今東西いつでも一緒です。『死に至る病』で、その例として挙っているのは、時間が解決してくれる、他のことに熱中して忘れる、別の何かを見つける、といったものです。現代と何も変わりません。つまりこれは、「地上的なもの」で自己を覆い隠し、有耶無耶にしているのです。

そしてその結果、またもや人は「絶望の第一形態」に戻ります。則ち、永遠と続く、終わりの無い絶望の循環が発生しているのです。つまり、無精神の人間は、決して絶望から逃れることはできないのです。

人が何かを求めるのは、自らの絶望を、自己の不均衡を、認めたくない性格、能力、自らの状況、それを覆い隠し、誤摩化し、曖昧にし、有耶無耶にするためです。そしてそのような行動は、常に次なる絶望への一歩となっています。無精神の人間は、絶望を隠すために何かを求め、そしてそれがまた苦しい絶望を創出し、そしてまた絶望を隠す為に何かを求め、そしてそれがまた絶望を創出する、という、ただその繰り返し、それだけの人生を歩むことになります。

だからこそ、キルケゴールは真にキリストを信仰することを提唱したのです。自己を認識することができれば、主体的で、俗世に縛られることなく、自らを突き詰めて行ける、そのような生を生きることができるからです。




突然、ここで話しは変わりますが、ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の冒頭で、「神は死んだ」と述べました。キルケゴールの絶望の議論にニーチェを当てはめた場合、この発言により、人間から完全に精神が喪失したこととなります。無精神の人間が極大に誕生し、終わりの無い絶望の循環が社会を覆いました。絶望の循環が社会を動かし、人を動かす。永遠に同じことの繰り返し。絶望するために絶望を覆い隠す。それだけの生が、至る所に芽吹いたのです。

ニーチェやキルケゴールが生きた社会、以後の社会、そして現在も含めた社会、それに生きる人。彼ら、そして私達は、産業革命以降、生活が近代化し、時間と金に雁字搦めにされながら生きていく中で、宗教や慣習、伝統的な規範がどんどん喪失していきました。その結果、人々に規範がなくなったのです。

現在の社会を生きる私達に、普遍的で、絶対的で、永遠的な規範はありません。その結果、正しさを喪失します。何が正解か分からなくなります。どのように生きていけばいいのか、分からなくなります。そして、再帰性(ああすればよかったのではないだろうか、いや、こうすればよかったのではないだろうか、ああすべきなのではないだろうか、こうすべきではないだろうかと永遠悩む感情)が増大します。


絶望と規範の議論が混在していますが、ここまでで言いたいこととは、精神の喪失により、絶望のために生き、永遠と苦悩する、そしてその苦悩には意味など無い。その意味の無い苦悩を永遠抱き続ける、それだけが人生、ということです。

しかし、それだけでは、何とも悲しいではありませんか。生きることが、あまりにも苦しすぎる。生きる意味が分からなくなる。では、キリストを真に信仰すればいいのでしょうか?日本人にはハードルが高すぎます。では、成す術も無く、絶望のために生きながらえなければいきないのでしょうか。

自分は、そんなのはごめんです。だからこそ、1つの方法としてここで提示したいことは、ニーチェの「永劫回帰」です。


「神は死んだ」の発言により無精神に陥った人間は、絶望の循環の中で生きることとなりました。しかし、ニーチェはこの発言をした『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、「永劫回帰」を提唱しています。


『幻影と謎』の章の中で、ツァラトゥストラは、過去に永遠と延びている道と、未来に永遠と延びている道に立っている「瞬間」という名の門にやってきます。この2つ道は、直線であるが故に、一見互いに永遠に喰い違うもの、矛盾しているものであるように見えます。しかし、ここで「重力の魔」と呼称される俗世に人を縛り付ける者はこう言います。


「直線をなすものは、すべていつわりなのだ」
「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ」(岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った 下』p15〜)

すると、ツァラトゥストラとはこう考えます。

「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?」

「ここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、――我々はみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?」

「そしてまためぐり戻ってきて、あの向こうへ延びてるもう1つ道、あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか、――我々は永遠にわたってめぐり戻ってこなければならないのではなかろうか?」


この後、ツァラトゥストラの目の前に、口の中に黒くて重たいヘビが入り込んだ牧人が突然現れます。ツァラトゥストラは彼を助けようとしますが、最早どうすることもできません。そこで彼は叫びます。「噛むんだ!噛むんだ!頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」

その時、牧人はヘビを噛み切ります。そして、飛び起きます。すると、牧人は牧人ではなくなり、もやは人間でもなくなり、1人の変容した者、光に包まれた者となるのです。



ニーチェは、この世は永遠に繰り返すのだというのです。それは、ただの繰り返しではありません。そっくりそのまま、全ての動作が繰り返すのです。今した瞬きも、呼吸も、咳も、漂って来る匂いも、気温も、憂鬱も、疼痛も、産毛の位置も、息を吸い込む量も、吐く量も、それら全てが、寸分違わず、過去に起こったことであり、未来で起こることであり、そして今まさにこの「瞬間」に起こっていることだというのです。

ニーチェは『この人を見よ』の中で、「永劫回帰」は「およそ到達しうる最高の肯定の形式」であると述べています。「永劫回帰」は、ただの決定論、運命論ではありません。ニヒリズムでもありません。肯定なのです。

無精神となり、絶望から逃れることができなくなった人々が、ただただその絶望を絶望しながら甘受するのではなく、その絶望自体を肯定する。では、いかにして肯定するのか?何を根拠に、何を拠り所として肯定するのか?それは、「永劫回帰」の認識によってです。

自分の今の絶望の状態は、過去に起こったことであり、未来にも起こることならば、自分の歩みは規定されたものとなります。そしてそれは、自分自身に規定されたものです。自分の肯定の意思によって、自分の行動が全て正当化されます。

だからこそ、どこまでも努力できるのです。大きな選択が訪れたとしても、再帰性の中でただただ踞るのではなく、自らの行動に正統性を持つことができるのです。繰り返しますが、その正統性を賦与するものとは、自分です。自分が過去に行ったことであり、未来に行うことなのですから。

この「永劫回帰」を認識することが、永遠に続く絶望の循環から抜け出すための思想なのです。しかしそれは並大抵のことではありません。なんせ、最高の肯定です。口に入り込んだヘビを噛み砕くのは、その人の意思だけなのです。そしてそれを噛み砕いた瞬間、人は「超人」になります。無精神からも、ニヒリズムからも解放され、自らの行動、その一挙一動を肯定できるのです。

「神は死んだ」の発言で、人は苦悩を背負い続ける、又、絶望から必死に目を背け、誤摩化すだけの人生を歩むことになりました。しかし、その絶望ですら肯定する。「地上的なもの」が失われた時も、それ自体を、過去の自分と、未来の自分を根拠に肯定する。だからこそ、どこまでも主体的に、本来的な生を全うすることが可能になるのです。ニーチェの言う賤民的、家畜的大衆、則ち畜群から抜け出ることができるのです。


しかしながら、「永劫回帰」の認識とは、誠に高尚なものであります。普通はできません。だけれども、自らの抱く絶望とはどういうものなのか、ということを、キルケゴールの分析と共に認識することは、きっとこれからの人生にとって、非常に有益なものなのではないかな、と思った次第であります。


『死に至る病』を読むのなら、ちくま学芸文庫の桝田哲三郎訳が非常に優れているので、参考にしてください。









おわり










by hayashihiromu | 2014-11-10 23:57 | 普通

或るファミレスへの鎮魂歌

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。

いや、それ以前に、当たり前の話しですが、そもそも何を持って「善い」とするのか、それを定義する事自体が不可能ですよね。

特に現代社会において、大澤真幸氏風に言い換えると「第三者の審級」が完全に撤退した社会において、それがより顕著になってきていると思います。習俗的なものだけでなく、社会的な規範さえも朧げなものとなってしまったが故に、再帰性との戦いで心身を磨り減らすだけとなっている「毎日」が街の至る所に落ちています。

何が「善い」のか分からない。だけれども、自分の中でそれを見いださなければ生きられない。しかし、規範が無いから、正解が分からない。自己自身を認識できない。実存をつかみ取れない。

ようやく何か分かりかけたと思い込んだ時に齟齬が生じると、人は絶望の淵に立たされてしまいます。若かろうが、年を取っていようが、その計り知れない苦しみは、時に自らをてるてる坊主になぞらえ、時に線路の上で花を咲かし、時に鳥に憧れて、時に魚に憧れます。

このような精神状態に陥った時、一体何が、そこから人を引きずり上げてくれるのでしょうか。

ここに万能薬はありません。だからこそ、私も今、苦しんでいるのです。




あれは数日前の夜のことでした。外出中にお腹が空いてしまったため、1人でファミレスに入店しました。

明るくはきはきとした店員さんに席に案内され、元気もりもりな店員さんにスパゲティを注文したところ、10分も経たない内に料理が登場。

えらく速いな、と思い、ここで初めて店内を見渡してみると、お客さんがあまりいないことに気付きました。結果的に、この人の少なさが、若干ではありますが、私を救ったのです。

黙々とスパゲティを食べた後、少し本を読んでいたところ、急にお腹に違和感が訪れてしまいました。

元々自分はお腹が丈夫ではないため、外出中でも腹痛に見舞われることがしばしばあります。つまり、腹痛においてはある種ベテラン勢な訳ですね。ベテランにはあらゆる事態にも対応できる長年の実践経験とそこから生じる絶対的な勘が、得てして備わっているものです。そのため、あらゆる事態を想定しながら、慌てることなくトイレに歩いていきました。

10分ほどの時間が経ったころには、トイレで完璧に事を遂げた自分がいました。あとはズボンを穿いてトイレを流せば良い、という段階に達している自分がいました。

ここまできたら、もうどんな素人でも大丈夫ですよね。さらに自分はベテランですから。ベテラン勢ですから。歴戦の勇士勢ですから。もうすんなりとパンツを穿いて、ズボンを穿いて、トイレを流すレバーを操作しました。


ジャーーー!!!



そうです。いつもなら、普段なら、このような豪快な男らしい水の流れる音が聞こえて来るはずでした。

しかし、なんと、ここで自分を待ち受けていた音は、



しゃ~~‥しゃんっ‥





私は固まりました。この音はおかしい。絶対におかしい。だって全然流れている音がしてないもん。これは何か不測の事態が起こっている。しかし、一体何が起こっているのか。分からない。でもこれはやばい。これはやばすぎる。

なぜ、ベテランである自分がここまで焦ったのか。それは、心に刻み付けられた1つのトラウマが理由です。ベテラン勢には、得てしてトラウマが幾つかあるものです。



あれは高校一年生だったと思います。則ち、まだまだルーキーだった時のことです。

急にお腹が痛くなったため、コンビニのトイレを貸してもらいました。そこでしっかりと用を足し、水を流すと、しゃ~~‥しゃんっ‥という、なんとも弱い音が聞こえてきました。恐る恐るトイレの蓋を開けて確認すると、そこには圧倒的な存在感。

自分はパニックになってしまって、もう一度水を流しました。しかし、圧倒的な存在感は変わらない。また水を流しました。だけれども圧倒的な存在感は変わらない。それどころか、だんだんとその存在感が増しているような、そんな錯覚に陥ってしまっていました。

いや、それは錯覚ではなかったのです。トイレが詰まってしまった、ということは、水が上手く流れていかない、ということであり、つまり、水が便器の中に溜まっていく、ということなのです。当時の自分は、ルーキーでした。そこに気がついていませんでした。何回も、何回も水を流しました。どんどん水が溜まっていました。そして、あの惨劇が訪れたのです。皆まで言わずとも分かって下さい。

自分は、怖くなって、逃げてしまいました。全力で走って、逃げてしまいました。泣きながら、逃げてしまいました。

泣きたいのは店員さんですよね。自分なら絶対に嫌ですもん。というか、できないです。自分がコンビにの店員さんで、そのような凄惨たるトイレを掃除しろ、と言われたら、もう辞めます。無理です。だからこそ、辛かったのです。申し訳無さ過ぎて、辛かったのです。

家に帰ってからも、もしかしたら自分は付けられていて、あの店員さんに家がバレてしまっているのではないだろうか、仕返しにくるのではないだろうか、と、一週間程震えて過ごしました。あの時のコンビニの店員さん、本当にごめんなさい。



私には、このようなトラウマがあったのです。だからこそ、またもや「しゃ~~‥しゃんっ‥」という音を聞いた時、あの時のトラウマがフラッシュバックしてきたのです。だけれども、今の自分はもうルーキーではありません。ベテランです。ベテラン勢です。

まずは、事態の把握が優先です。恐る恐る便器の蓋を開けてみると、やはりそこには圧倒的な存在感。

あの時のトラウマが蘇り、泣き出しそうになりながら、もう一度水を流してみることにしました。すると、やはり流れない。

ここでまた沢山水を流すと、あの時の惨劇の繰り返しとなってしまいます。そのため、周りにスッポン的なものが無いか探したのですが、全く見当たらない。


終わりです。詰みです。成す術がありません。


そして、結論から言えば、自分は、またもや逃げ出してしまいました。

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。



自分は、どうすればよかったのでしょうか。店員さんに報告するべきだったのでしょうか。でも、そんなことできますか?あの、すみません、うんこ詰まっちゃったんですけど、って言えますか?もし言ったとすると、多分現場検証が始まりますよね。自分の目の前で、他人に自分の圧倒的な存在感を見られることを容認できますか?自分は、どうすればよかったのでしょうか。


トイレから脱出する時、もしも人が並んでいたら、もうそこでアウトでした。即バレていた訳ですからね。しかし、この時、店内の人は少なかったのです。だからこそ、人が並んでいないことに賭けて、脱出し、直ぐさま料金を払い、店を後にしました。


しかし、救われたのは自分だけであります。いや、自分も救われていません。罪悪感が半端ではないのです。本当に辛いのです。まさに、絶望であります。もう嫌です。辛いです。ごめんなさい‥。


より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。

たしかに、「善い」の定義はありません。しかしながら、「善い」の中に入らないものを見つけることはできます。

より善く生きる、とは、なぜこれほどまでに難しいのでしょうか。



本当にごめんなさい‥。ごめんなさい‥。ごめんなさい‥。












おわり



by hayashihiromu | 2014-10-05 02:06 | 普通

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ダウンタウンさん、高須光聖さん、板尾創路さんを心から尊敬しております。

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